美術

「小松正史コンサート 初秋の宵どきピアノ」

今日は、友達の友達の知り合い(?)の方のピアノコンサートに行ってきた。

ピアノのコンサートに行くなど、子供のころ以来ではないかと思うけれど、やっぱり生の音楽はいいなぁと感じた。バンドやギターや歌だけではなくて、他の楽器でもなんでも生はいいなぁ。

小松さんは
http://www.nekomatsu.net/index.html
というような活動をされている方(無断でリンクしちゃいました)。

即興で曲を作って弾いてしまえるし、コンサートで披露した曲はすべてオリジナル曲、という本格派。クラッシックとは違うけれど、加古隆などを好んで聴いていた私には、すんなり受け入れられるタイプの曲だった。

何か懐かしい気持ちにさせられ、心を温かくしてくれる音楽。気取っていない、飾りすぎていないところが心地よい......そんな感じ。

ま、音楽の良さは言葉で語っていてもあまり伝わらないかもしれないので、これ以上書きませんが。

でも、京都を中心に活動されている方みたいなので、関西方面の方は機会があったら是非、聴きに行ってください!

 

表現の原点

と、曲自体から感じたことはそれくらいにするけれど、小松さんの文章や言葉から、表現というものについてちょっと考えさせられてしまったので、そのことも書いておく。


小松さんは、あくまでピアノは「ライフワーク(趣味?)」であってそれで生計を立てていく気はないと言い、工学系の大学院の講師などをしているらしい。

そういう立場だから言えるのかもしれないけれど、「曲を作るときは、まず自分が心地よいということが大前提ですから」と一言、当たり前のように言っていた。

たまたま小松さんの演奏を聴いた人が気に入り、CDにしたり、演奏会を開く状況を整えたりしているだけで、本人はただ自分のために作り、自分のために弾いていた、と。

表現の原点ってそこだよな、と、なんだか考えさせられてしまった。

  

自分が心地よいと感じるものを追究する

私は五年くらい前から、プロの作家になるぞと思い、自分にはそれしか道がないというところまで結構精神的に自分を追い込んできた。三年半ほど前に仕事を辞めてからは特に。

その状況で、確かに技術は向上したと思う。でもそれと引きひきかえに、何かを手ばなしてきてしまった気もしていた。それが、自分が心地よいと感じるものを追究するということだったのかもしれないと、今日、思った。

 

以前の私はただ、自分の心を治癒する行為として小説を書いていた。作家にはなれなくてもいい、死ぬときに残っているお金の一部で自分の作品を自費出版できたらそれで充分と感じていた。

 

その頃の私の作品には、起承転結も、ストーリーの波もない。キャラクターの作り方にも、場面の選び方にも、難がたくさんあっただろう。今より、ずっと。

でも少なくとも私の心の奥深くには入り込むことができた。自分の心にだけ入ってもしかたないかもしれないけれど、心の奥にはみんな似たようなものを持っているから、自分の心に素直になれば、それが素直に人の心に伝わったりすると思うんだ。

 

だからといって、今、前の状態に戻りたいとは思わない。

でも、「なくしてしまった」と思っていたものは、もしかしたらただそのあたりに「転がしてしまった」だけで、もう一度つかむこともできるのかもしれない、そう、今日はちょっと思えた。

もう一度、仕事とか生活の形を一から見直して、小説を「趣味」にするという方向を考えてもいいかもしれない。

それは、プロになることをあきらめるというのではなくて、うまいぐあいに力を抜いた、もっと自分らしい作品を書くための、ちょっとした視点のずらし。

執着して凝り固まった心では、きっと人の心の奥まで染みる作品を作れないから。

そんなことを考えさせてくれた今日の体験はとても良かったです。ありがとう。

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