「紫のガラス」

紫のガラス 4-2【完結】

1-1から始まっています。

 

 作品は仕上がったのに、搬入は予定より一週間ほど延びた。先生が事務局にそう頼んで欲しいと後から言ってきたのだ。当初は小学校での展示が休みになる月曜日に設置する予定だったが、金曜日の夜に設置し、土曜日からお披露目したいと言う。

 先生の新作ならともかく、弟子の作品はもっとそっと付け加えたほうがいいのではないかと思ったが、土曜日ならアデルさんのピアノ演奏を企画してもいいと事務局の人に言われ、そんなスケジュールに決まった。

 先生はまだ今回、小学校には足を運んでいず、だからアデルさんにも会っていなかったけれど、アデルさんのことを話すと、「よく覚えている。学生時代はよく一緒に作品を見に行ったり、表現について語ったりした」と言った。アデルさんの演奏とのコラボについても、「一緒に美術作品を創ったことはないのに、そんなコラボが最初なんて面白いわね」とあっさり賛同した。

 そんな風に日程の変更はあったものの、すべてはスムーズに進んでいた。

 そして金曜日の昼、私たちは車に作品を積んで、湖の町に出発しようとしていた。工房の軽トラに荷物を積み込み、私が運転し、新井さんと先生も同じ車で小学校に行く話になっていた。

私の白い作品を荷台に積みこみ、運転席に乗り込もうとすると、先生が言った。

「もう一つ、運びたい作品があるの」

 私と新井さんは顔を見合わせたあと、歩き出した先生に従った。先生は工房ではなく、自宅に向かっていた。

「上がって」

 おじゃましますと小声で言い、上がりこむ。工房と先生の家は徒歩三十秒ほどだけれど、自宅の方に行ったことは、二度しかない。

 家は二階建てだけれど、足が不自由な先生にとって階段の上り下りは負担になるのだろう。二階は来客時くらいしか使わず、基本的に一階だけで生活がまかなえるようになっている。

 玄関から廊下を進み突き当りにリビングダイニングがあり、その近くの扉を開けると、先生専用のアトリエだ。中央にステンドグラスを組み立てられるように大きな台が置かれているものの、デザインしかしない先生には無用の長物のように思われた。

 が、今はその台の上にステンドグラス作品が置かれていた。

「これ」

 先生はそれだけシンプルに言った。

 それは淡い紫のステンドグラスだった。先生が好きな夕闇一歩手前の空の色。

 その作品は抽象絵画のようで、はっきりと描かれているものが分かるデザインではなかった。それでも、それはきっと先生が好きな時間帯の空と……あの小学校から見える湖の水面を表しているのだろうと分かった。

 彫刻こそ施されていないが、私の作品と対になるような、シンプルで、色に頼ることを限界まで削った作品。

 いや、そうじゃない。私の作品は色を無くすことで、色というものの存在自体も否定した。でも先生の作品は、淡い紫という一色に絞ることで、逆にその色の力を何十倍、何百倍にも強めていた。

 もし本当に作品創りに勝ち負けがあるなら、明らかにこれは、私の負けだった。

「綺麗ですね」

 私は、それだけ言った。先生も「ありがとう」とだけ返した。

「悪いけれど、東の窓の作品を、これに替えたいの。設置、お願いするわ」

「はい、分かりました」

 新井さんも先生の作品を見て衝撃を受けたようだったが、それは言葉にならなかった。

 

 予定通り金曜日の展示時間が終わったあと、私たちは東の窓と西の窓に新しい作品を設置した。夜はそとから何も光が入らないから、ステンドグラスの本当の美しさは眠っている。

 作品の本当の出来栄えが分かるのは、翌日の朝だった。

 小学校の展示が開くのは十時だったから、その一時間前に音楽室へ向かった。新井さんや先生とは九時半に約束をしていたけれど、それより三十分早い。

 でも、音楽室に行くと、そこにはもう先生の姿があった。作品の出来栄えを気にしていたのは、私だけではなかったらしい。

「早いですね」

 私が声を掛けると、教室の隅に座って三枚の作品を見ていた先生は振り返って、静かに微笑んだ。

 私も扉の近くから三枚の作品を見る。東と西の窓は完璧な対をなしていた。紫と白の対比だけれど、それは黒と白の対比以上に完璧なバランスを見せていて、ちょうどいいコントラストのモノクロの世界を創りだしていた。さらに左右がモノクロ調だから、元からあった色鮮やかで大きな南の窓の作品が、さらにいっそう華やかさを増し、存在感を強めた。

 まるで三枚すべて、一人の人が創った作品のように、過不足なく完成している。

 先生は私の作品を見たあと、この紫色の作品を創ったはずだ。つまり、私の作品に合わせて創った作品。それなのに、それは完全に“先生の作品”だった。
弟子のちょっとした思いつきや冒険など全部包み込んでしまえるような、先生の完璧なまでの大きさ。

 先生はまだまだ私たちのずっと先にいるじゃないか。

 先生の作品の淡い紫を見る。そういえば、先生は私にあの色のガラスの欠片を一枚、手渡してくれた。私はそれを使えなかったなと思う。

「この紫……綺麗ですよね」

「そうね。私の好きな色。私がこの色を好きなのは……これは夕暮れの色でもあって、早朝の色でもあるから。つまり、始まりの色。一日の始まり。夜の始まり」

「あぁ……」

 そうか。先生と一緒に見たのは夕暮れだけだったから、先生は一日の終わりの色として、この色が好きなのだと思っていた。でもこれは、一日の始まりの色でもある。……そして、一日の終わりは、夜の始まりでもあるのか。

「結局私は、先生にもらった紫色のガラスを活かせませんでしたね」

 私の言葉に、先生は驚いたような顔をした。

「ううん、違う。違うのよ。あれは別に、使ってほしいということじゃなくて、ただのお守りみたいなものだった」

「お守り?」

「そう。新しい何かを始められますように、って」

「あ……」

 気持ちは言葉にならない。

「朝霧遼のこと、新井君から聞いたでしょう? アデルの演奏に合わせて来るようにって、呼んだわ」

「……でも私は、先生からもう教わることがないなんて、そんな風には思いません」

「そうね。あるかもしれない。でも、ないかもしれない。……私は今回、この作品をあなたに任せて良かったと思っている。あなたのお陰で、私にも新しい何かが始まった。でもきっと、私のは夜の始まり。あなたは一日の始まり」

「それは……」

 私が言いかけたとき、「おはようございます」と陽気な声がして、アデルさんが姿を現した。

「おぉ、いいですね。素晴らしい。ワンダフルです」

 アデルさんは先生との再会を懐かしむ前に、作品をじっと見つめ、その感想を述べた。

「ありがとう」

 先生の言葉で、アデルさんは初めて先生を見、「ご無沙汰しています。本当に随分久しぶりだ」と言った。

「この新しい作品は?」

 アデルさんは先生と私二人を見ながら、西の窓と東の窓の作品について訊いた。私は西の窓が私の作品で、東の窓は先生のだと簡潔に説明する。

「いいですね。味わい深い作品です。昨日とは、まったく違う場所に立っているような気持ちになります」

 アデルさんは改めて部屋のなかを歩き回り、三つの作品を眺める。視界のなかがステンドグラスとアデルさんだけになると、ここが日本の田舎の小学校ではなくて、海外の格式高い建造物のなかなのではないかと思えてくる。

「美しいだけでなく、温かさもある作品を創るようになったんですね。そして……」

 アデルさんが先生をまっすぐに見て、言う。

「良い生徒を育てている」

 先生は静かに笑う。

「少しはポロスキーに近づけたかしら」

「どうでしょう。彼は白糸絹子という偉大な作家を育てましたからね」

「アデル・シュフェレフも」

「そして、朝霧遼も」

「え?」

 思わず二人の会話に口を挟んでしまう。この会話の流れから、ポロスキーというのが先生とアデルさんの何らかの師であることは分かる。でも……遼もその弟子なり、教え子というのは……?

「あぁ、遼は正確には違います」

 私の驚きの声を受けて、アデルさんが説明してくれる。

「遼はポロスキーの息子です。彼は日本で育っているので、そこまで頻繁にポロスキーと会っていたわけでも、そこまで強く彼の影響を受けたわけではないでしょうが」

 遼はロシア語も英語もほとんど話せなかったから、“それなのに外国人っぽい”見た目にコンプレックスを持っていた。それくらいだからきっと、ほとんど会っていないロシア人の父親のことなど、あまり意識したくもなかったのだろう。それなりに親しくなっても、遼から父親のことを聞いたことはなかった。父親が先生の師であるという大事なことさえ、遼は話さなかった。

 でも、先生の方は遼を、師の姿越しに見ていたのかもしれない。

 もしかすると、ポロスキーさんというのも、有馬先生のような厳しい人だったのかもしれない。自分以外の人を認めないような……。

「ポロスキーさんというのは……厳しい先生だったのですか?」

 私は先生ではなく、アデルさんに訊いた。

「そうですね、優しいとか気さくだとか、そういう表現は当てはまらない人でしたね。でも、厳しいというよりは、不器用な人だったと思います。愛情表現が不器用だったというか」

「あぁ……」

 ぼんやりとポロスキーさんの像が浮かぶ。

「面と向かって私も褒められた記憶はないですし、同じガラスという分野で作品を創っていた絹子には、より風当たりは強かったように思います。……でも、心の奥では絹子を深く信頼していたのでしょう。でなければ、息子を絹子のところに送り込んだりはしないでしょうから」

「そうですね」

 結局先生は、師を通して遼を見ていたのではなく、遼を通して師を見ていたのだ。

 普段声を荒げたりしない先生が、まだ若い遼にあんなに感情的になった理由が少し分かる。

 先生と遼は親子ほどの年の差があるけれど、姉弟子と弟弟子のような……ある意味初めからライバル同士だったのかもしれない。

「遼は元気ですか?」

 先生がアデルさんに訊いた。

「相変わらずですよ。元気です。元気を持て余しています。今もよくしゃべります。今はすっかり語学も堪能になり、色々な言語を交えて、彼のペースで話し続けていますよ」

 そんな遼の姿も目に浮かぶ。

「今はアデルさんのところにいるのですか?」

「いや、そういうわけではないですよ。彼は一人でやっています。立派に、一人のガラス工芸作家として。……私はただの飲み仲間みたいなものです」

「今はどんな作品を?」

 先生がアデルさんに訊いた。

「見ていないのですか? 今はネット上で作品などいくらでも見られるのに」

「ええ。見ないようにしていました」

「そうですか」

 アデルさんはそこで一呼吸置き、「それなら、なおのこと会うのが楽しみですね」と言った。

 そのとき廊下から足音が響いてきた。きっとスニーカーを履いた若者だろう。

 軽やかなその足取りからは、淡い紫色の、はじまりの音がした。

                       <了>

-「紫のガラス」

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