「紫のガラス」

紫のガラス 1-1

※火曜日・金曜日更新

 

「驚くほど、変わらないね」

 窓の外を眺めながら新井さんが言った。窓を開けると湖と湖を取り囲む緑が見える。遠くには少し靄がかった山々の青。思わず深呼吸したくなるような、広々とした、すがすがしい景色が広がっている。

「この場所は……そうですね」

 この場所は変わらない。三年前に泊まったり、何度も通ったりしたときから。でも、私たちの側は驚くほど変わった。

 私の気持ちに気づいたのだろう、新井さんも言った。

「あぁ、そうだね、この場所は。もう少ししたら、先生が好きな日没後のいい感じの紫が見えそうだ」

 太陽は沈み切っていないが、山々と山々にかかる雲によって姿を隠してしまった。そうするともう、ステンドグラスの光は、壁や床に色を落とさない。

「先生は……来ないの?」

「よく……分かりません。気が向いたら、会期中に一回くらいは顔を出すんじゃないでしょうか」

「そっか……どんどん重症化するね」

「ええ」

「小田さんも大変だね」

 私は肯定するのもどうかと思い、困ったような笑顔を作ってみた。

「とりあえず取り付け作業は明日やろう」

 そう言いながら、新井さんは机に置かれている新しい“先生の作品”の梱包を解き、作品をじっくり眺めた。

「作ったのは、全部小田さん?」

「デザインのラフ案だけは先生が」

「あぁ……。三年前から、他の窓にこだわっていたもんね、先生」

“先生”は、ステンドグラス作家だ。そして私はその先生の助手であり、弟子のような存在でもある。新井さんは元弟子。……いや、独立して“元助手”になっても、弟子は弟子のままか。

「はい。あの頃は忙しすぎて、一枚分しか作れなかったから」

「そうだったね」

 新井さんも遠くを見るような目になる。

 ステンドグラスが窓に嵌められているけれど、ここは教会でも講堂でもなく、もうずいぶん前に廃校になった小学校の音楽室だった。さほど広くはない音楽室だけれど、どういう流れでそうなったのか、音楽室だけ校舎からどんっと突き出すような形に設計されていて、この部屋だけ東と南と西に窓があった。

 そんな不思議な場所だからだろう。三年前に初開催されたこの町の美術イベント「湖畔の町トリエンナーレ」で、この窓に飾るステンドグラス作品を出品してもらいたいと事務局から先生にオファーがあった。

「これは東の窓用の作品なんだよね」

 そう言いながら新井さんは私の作った作品を机に置いたまま両手で立ち上げ、光に透かすようにする。全体が黒に覆われるようだった作品に色が戻る。

 三年前に作った作品は大きな南側の窓用で、高さ一五〇センチ、幅九十センチの作品の二枚セットだった。それに対して、今回の作品は高さ五十センチ、幅八十センチと小さい。それでも分厚いガラスを使って作ったステンドグラスは重く、目線より高い位置にある窓に一人で設置するのは難しかった。それで新井さんに手伝いを依頼したら、「良い気分転換にもなるし、遊びに行くよ」とわざわざ来てくれた。

「いいね、朝のすがすがしい光に合う」

 東側の窓用に作った今回の作品は、新緑のなかに散らばる赤い花の絵だった。バラのようでもあるけれど、バラに限定されない、しなやかで小さいデザインの花になっている。

 三年前に作った、今は南の窓に嵌められている大きな作品は、雄大な山の絵だ。雄大だけれど、女性らしい優美さもあり、色合いも柔らかい。春から夏に向かう頃の緑と青の混ざるような色の山肌と、山の手前の湖の水色、湖の周りを飾る夏に向けて濃さを増していく緑の色……それらを存分に表現した、先生らしいデザインの作品だった。

「悪くない作品だね。……でも……」

「でも……?」

 私が問うと、新井さんは「いや」と話を打ち切った。ただ私も新井さんの言いたいことはなんとなく分かる気がした。

 悪い作品ではない、でも傑作かと言われると、頷けないものがある。三つ窓があるのに、他のふたつの窓に作品がないのが気になるというのは分かる。でも、三年越しに付け加えるにしては、なんだか弱いように思う。しかも三つのうち二つなんて、それこそ中途半端だ。……そんなあたりか。

「西側の窓のことですか?」

 新井さんは、はっとした顔をして、「あ……あぁ」と言った。

「時間、なかったの? 手が足りなかったとか?」

「いえ……。そういうわけではないんですけど」

「じゃあ、先生がデザインを描かなかったんだ」

「ええ、そうですね」

「そっか」

 そう言うと、今度はただの“音楽室の窓”である西の窓を新井さんはじっと見つめた。

「もしかしたら……」

「え?」

「いや……先生は三年後を見ているのかなって」

「三年後……」

 そこで沈黙が訪れる。三年前はほとんど気にならなかった沈黙。

 それはあの頃は次から次へとやってくる仕事の依頼でみんなが忙しくて、目の前の仕事に没頭していなくてはやっていけなかったからでもあり……そして、どんなに忙しいときも、誰が相手をしなくても、しゃべり続けていた遼がいたからでもある。

「でも、この三年でこんなに色々変わってしまって……さらに三年後なんて、どこで何をしているか、なんか想像もできません」

 私の言葉に新井さんは、「そうだね」と遠い目をした。

 翌日は天候に恵まれていたから、東の窓から光が差すあいだに作品を設置し終え、緑と赤がきれいに音楽室の床に光を落とすところを写真に収め、先生に送ることができた。

 先生はいつものように「おつかれさま」と文字だけ送ってくるかと思ったけれど、珍しく電話を掛けてきた。

「いい感じね」

「ええ。今日は天気も良いので、色がより映えます」

「そうね。南の窓のほうはどう?」

「三年の風雨で汚れてはいましたが、昨日事務局の人にも手伝ってもらって中と外と両方洗ったので、今はまた澄んだ色と光を取り戻しましたよ」

「そう、ありがとう。お疲れさま」

「じゃあ、昼にはここを出て、戻ります」

 私の言葉に、先生は「え?」と驚いた声を出した。

「まだやることありますか?」

「あ……」

 そこでなぜか先生は考える間を取った。

「そうね。……音楽室全体の写真を撮って送ってくれる? できるだけ引きで、広角で全体が分かるような感じで」

「あ、はい。分かりました。撮ったら送ります」

「うん、お願い。……新井くんは今、いるの?」

「代わりますか?」

 いつも新井さんに連絡をするのは私の係だったから、今日も“お礼だけ伝えておいて”と言われるかと思っていた。でも珍しく先生は「そうね」と言って、新井さんと電話で話し始めた。

「いえ、こちらこそ」「あぁ、なるほど、そうですね」「それほどでもないですよ」「分かりました」

 携帯を新井さんに渡すと、新井さんの返事しか聞こえない。そして、新井さんの返事を並べてみても、先生の用件は何も分からなかった。

「先生、何て?」

 通話を終えてから携帯を私に返す新井さんに私は訊いた。

「いや、わざわざありがとうって」

「そうですか」

 何かが少し引っかかった。

 そのあと、私は先生に頼まれた音楽室全体の写真を撮り始めた。廊下に出てみたり、部屋の隅でしゃがみこんだりしながら、できるだけ全体がつかめるように。本当に自分の作品が気になるなら、ここまでくればいいじゃないかと思いつつ。

 先生は足が悪い。でも杖をついているだけで、車いすでなければ移動できないほどではない。しかもステンドグラスという重たい作品を運ぶから、私たちの移動はほとんど車だ。山道を歩くとか、混んだ電車で立ってなくてはいけないなどということは滅多にない。

 撮った写真を液晶画面で確認する。露出を敢えて抑えて撮ると、部屋が暗く、窓からの光とステンドグラスの色だけが輝き、実際に見る以上に美しい写真が撮れる。

「うん、いいね」

 新井さんも液晶を横から覗きこみ、言う。

 デジタル一眼で撮った写真をスマホに読み込み、先生に送る。すぐに来るかと思った返事はなかなか来ない。

 私はステンドグラスの入っていない西側の窓を開けて、体を乗り出すようにして深呼吸した。緑のなかの空気はやっぱり美味しい。

-「紫のガラス」

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