※1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新
ここは東京から車で三時間ほど掛る“里山”的な場所で、山と畑と田んぼの多い田舎だ。ただこの湖はちょっとした観光スポットになっていて、全周一キロに満たない小さな湖の周りにはお洒落なレストランやカフェが三軒ほどあった。……少なくとも三年前は。
「ブロッサム、まだありますかね」
そのうち一軒のイタリアンレストランの名前を挙げる。三人が気に入ってよく行っていた店だ。
「調べる? 行ってみる?」
新井さんがスマホを片手に訊く。
「行ってみますか」
トリエンナーレ会場の小学校から三分も歩くと湖畔に出る。湖畔の入り口には駐車場と、東屋のような休憩所とトイレがある。小学校から湖畔までは舗装された道なので、湖畔の遊歩道に入ると、土と緑の匂いがもわっと私たちを包む。
「最近、新規の仕事ってあるの?」
湖の向こうに青い山々が見えるすがすがしい景色を前に、新井さんが急に現実的なことを言う。
「少ないですね。……私はもうほとんど自分のことをワークショップや教室の“講師”のように思っちゃってます」
「そっか……。まぁ、それは僕も似たようなものだから、何とも言えないけど。……先生は?」
「先生は……引退した気分なのかもしれないですね」
「相変わらずか。先生の名前を出して、大々的にアピールすれば、今でも大きな仕事は入ってくると思うのにね」
「はい……」
二年前、先生と遼に何があったのだろう。それは今も分からないままだ。
いつも自分も周りも達観しているような先生が声を荒げて遼を叱り、遼はいなくなった。そして、その日を境に、先生は創作意欲を無くしていった。いや、その前兆はもっと前からあったかもしれない。
「仕事がまた増えたら、新井さんにも、もっとちゃんと依頼してお仕事してもらえるし……遼はもういないとしても、他に若くて力のある男子を雇えるし……なんですけどね」
近くの木に止まっていた小鳥が澄んだ声で鳴く。翼の一部が青い色をした綺麗な鳥だ。
「小田さんは……でもやっぱり、先生のところに留まるんだね」
「そう……ですね」
なぜだろう。私には新井さんのように先生の元を離れて独立するとか、他の工房の門を叩くとか、そういう選択肢はないような気がした。
「今回のように、先生の作品にまつわる仕事は完全にはなくならないですし……私には特に扶養しないといけない家族がいるわけでもないので、今の収入で一人ならなんとかやっていけるというか」
それが本当の理由ではないと自分でも分かっている。これはただの表向きの理由だ。新井さんもきっと分かっている。それでも新井さんは言う。
「小田さんが納得してそうしているなら、それが一番いいと思う」
そのあとしばらく会話がなくなる。私は湖と空の青、湖と空の境目を作る木々の緑、そしてさっき見た鳥の青、雲の白……色をバラバラのパーツにして、頭の中で組み立てていく。私が自分でデザインして作るのは、シェードランプとか小さな作品だけだけれど、ステンドグラスを作り始めてから、私が頭の中で描き出すイメージは、細かなパーツが組み合わさったパズルみたいなものに変わった。
しばらく行くと、懐かしい小屋のような建物が現れる。看板もきちんと出ている。
「良かった。まだありましたね」
中に入ると、夏休み前の平日なのに、店内には意外とお客さんがいた。でも、湖を目前にできるカウンター席には空きがあった。
「テーブル席とカウンターとどちらがいいですか?」
若いスタッフに訊かれ、私たちは間髪入れず“カウンターで”と応える。カウンター席に座ると、屋形船にでも乗っているような気分になれる。湖の方に張り出すように建てられた店からは、小路も何も挟まず、湖面が見える。換気のために少し開けられた窓から外の風が入ってくるのも気持ちが良い。
ピザとパスタを一つずつ注文し、シェアすることにする。遼がいた頃は、ピザ一つとパスタ二種類を頼み、取り分けていた。
食べたいパスタが三種類もあり、「遼がいたら良かったのに」と言うと、新井さんが「そこで言う?」と笑う。でも、こういうときにしか、本音は言えない。
結局マルゲリータのピザと、きのこの和風パスタを頼む。オーナーの奥さんが料理を運んできてくれる。さすがに奥さんは私たちのことを覚えていないが、私は懐かしい気持ちになる。
一度ランチ終了間際に来たとき、お客さんも少なくなっていて、奥さんは私たちに色々話をしてくれた。二人ともこの地に元々縁があったわけではないけれど、この建物の持ち主と縁があり、店を開かないかと提案されて、愛知県から移ってきたこと。愛知で元々開いていた店は、駅から近いビルのなかに入っていて、平日は忙しい会社員が多く、自分自身の仕事や生活のリズムや呼吸のペースが今とは全然違ったように思う……など。
そんな話を受けて、遼が「分かります」と深く頷いていたことも印象に残っている。遼は調子がよく、“うん、そうだよね、分かる、分かる”とか、日常的に言っていたけれど、あの時の反応には深い意味がありそうで、心に留まったのだった。
実際、場所の持つ独自の時の流れというものはあるように思う。この店は入るなり、ふっと急いている気持ちが止まるような、不思議に柔らかい空気感に満たされている。
今はもう私は忙しくないし、特に今日はただ先生の返事を待っているだけの暇人だから、扉を開けて一歩なかに入れば、すっとこの場に馴染めるけれど、あの頃は違った。三年前は、この店に入ったとき、両肩をぎゅっと捕まれ、“落ち着いて”と言われたような感じがした。それは決して不快な感覚ではなかったけれど、力強く、抵抗し難かった。
三年前が“忙しかったけれど、充実していたな。大変だったけれど、三人で語り合いながら食事をする良い時間も持てたな”という思い出になっているのは、この店のおかげなのかもしれない。この店がなければ、私たちはただもう、殺伐とした締め切りに追われる作業の日々に明け暮れて終わっていた。
「結局私は、暇な生活の方が好きなのかもしれません」
マルゲリータのピザを一枚じっくり味わいながら食べ、口を開くと、新井さんは笑った。
食事をしながらも時々携帯を確認したが、先生からの返事は来なかった。何度も携帯の画面を見ていたら、久しぶりに遼に電話でも掛けてみようかなどという気持ちになる。私の知っている電話番号が今も繋がるものなのか分からないけれど。
片手で携帯を操作し、アドレス帳をざっと見る。遼の名前はすぐに見つかる。それを選択して、番号を表示させてみる。
「先生から連絡あった?」
携帯をいじっている私に新井さんはそう訊き、画面を覗きこんで、ぎょっとした顔をする。
「え? 今、この流れで、遼?」
「あ、いえいえ、連絡はしませんよ」
私はアドレス帳アプリを閉じる。でも、新井さんといるときくらいしか、遼に電話などできない気がした。
最後に少し残ったパスタを新井さんに譲り、ふぅと息をついたとき、携帯が震えた。
「あ、先生からやっと返事が」
「あぁ、なんだって? もう帰って来いって?」
「さぁ、どうでしょう」
私は軽い気持ちでメッセージを開くが、そこには思ったのとは違う内容が書かれていた。
『やっぱり、西側の窓にも作品を創ることにするわ』
私は思わず、「ええええ!」と口にしていた。新井さんが“どうした?”というように携帯を覗いてくる。
「はは、やばいね」
「新井さん、他人事みたいに言わないでくださいよ」
「うん、他人事だから」
新井さんはいつものような軽口を叩いたが、そのあと「あ」と言った。
「いや、他人事じゃないかもしれない」
「え……? なんでですか?」
ランチセットの紅茶を飲みながら、新井さんはしばらく間を取り、言った。
「うん、さっき、先生と電話で少し話したでしょ」
「はい。珍しく先生が“代わって”って。そのとき何か言われたんですか?」
「“小田さんのことをよろしくね”って。言われたときは、“トリエンナーレ事務局のOKが出るまで付き合ってあげて”とか“また大変な設置がある仕事のときはよろしくね”というような意味かと思ったんだけど。……でも、最近急ぎの仕事はあるの? とか急に脈絡もなく訊かれていたんだよね」
「わ、それは怪しい流れですね」
ここぞとばかり、さっき意地悪なことを言われたお返しをする。
「でも、新井さんがいてくれたところで、十日で作品創って設置するのは無理ですよね」
そう言ったとき、携帯がまた震えた。
『小田さん、デザインを考えてみてくれる?』
私はそのメッセージをそのまま新井さんに見せる。新井さんは「へぇ」とよく分からない感嘆符だけ口にする。
『デザインを任せてもらえるのは嬉しいですけれど、デザインを決めて、東京に戻って作品を創って、またこっちに来て設置して……それで十日後の開幕に間に合わせるのは無理だと思います』
なかなか早くならないフリップ入力で長文を打ち込み、先生に送る。先生の返事は紅茶を飲み終わるまでに届いた。
『うん、いいの。会期の途中に作品入れ替えがある美術展などもあるじゃない。敢えて、会期の途中に入れましょう』
本当に“敢えて”なのか、ただ思いついたときには開幕日に間に合わない状態だったというだけなのか分からないけれど、私は『分かりました』と返事をした。
音楽室の作品展示については、トリエンナーレ事務局から一任されているから、作品が途中で増えても問題はないだろう。ただ作品を増やしたからといって、収入が増えるわけでもない。そんな現実的な問題も頭に浮かぶが、それでも私の心はワクワクしていた。