「紫のガラス」

紫のガラス 2-2

1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新

 

 デザインが決まるまでは工房へ戻らなくてもいいと言われ、私は近くに泊まることにする。新井さんは予定通り今日帰るそうだが、特別急ぐ仕事もないから、夜遅く帰ることになっても構わないよと言った。

 それで店を出ると二人で湖の周りを歩いた。

ヨーロッパの教会にあるステンドグラスのモチーフにはマリア様や天使が多いが、日本の教会以外の建物に飾られるステンドグラスは、花や木など自然にあるものがモチーフになっていることが多い。先生の作品の多くもそうだ。特に今回のように地域のイベント内で展示される作品の場合、その地域らしさの出るモチーフで作品を創れたら、より良い。そういう意味で、心惹かれるモチーフを求めて、散策を開始したのだった。幸いにもデジタル一眼を持ってきている。

「東、南、西と日の光は動いていって、一日になりますけど、その移り変わりは春、夏、秋という一年の流れにも通じますよね」

 そう言ったのは、湖畔の一部に紅葉の木を何本か見つけたからだ。今は青々と茂っているが、当然秋になればきれいに赤く染まるだろう。

「そうだね。確かに東の窓の薔薇は春、南の窓の湖畔の風景は夏のようでもあったね」

 紅葉の青い葉が風で揺れ、がさがさと音を立てる。

 湖を挟んだ向こう側を見ると、青々とした木々の影が湖面に映っている。それが風で襞になり、抽象的な模様になる。

 また手前の木々に目を戻すと、逆光になっている木に、差すように陽の光が降り注いでいる。木の幹は通常以上に暗く、茶色より黒に近くなり、逆に光を透かす葉は通常よりも何倍も明るく輝く。さらにそれが風で揺らぐと、明滅するライトのように豪華になる。光と影のコントラストが強い。そしてその風景こそが、ステンドグラスの世界観にとても近しいものだと感じる。

「紅葉……ですかね。ベタですけど。東の窓の赤いバラは小さくて、添え物のようでありながら、緑の中で凛と存在していましたけど、それくらいの存在感の赤か黄色の葉が、秋の光に輝いている……そして、湖面に影を落とす……」

 言いながら、頭の中でイメージが少しずつ仕上がっていく。パズルのピースがはまっていくように、少しずつイメージは見える範囲が広くなり、そして、視界の靄が散っていくように、少しずつ解像度を高くしていく。

「なるほど、いいね」

 新井さんもしばらく目をつむり、自分の頭の中に何かしら紅葉と湖の風景を描き出そうとしているようだった。

 もし今、頭の中にあるイメージを絵に描いてみたら、私と新井さんの思い描いているものは全く違うだろう。それでも今は、同じようなものをイメージしていると思いながら、時間と空間を共有する。それが大事な気がした。

 音楽室に戻ると、すでに西側の窓から陽が入るようになっている。まだ日暮れには大分時間があるが、日が入ると窓の印象はまた全然変わる。

 東側と西側の窓は、南の窓と違い、目線より少し上にある高さ五十センチほどの小窓だ。だからこそ、三年前は作品を創らず、そのまま置いておかれたのだけれど、上下に開く実用的な窓だからこそ、素のままだと無骨にも感じられた。

「赤に赤だと……干渉しますかね」

「え?」

 ピアノの側にいた新井さんが私のそばに来て、同じように窓を見上げた。

「赤?」

「夕日の赤です」

「なるほどね。ここからどれくらい夕日は見えるのか、沈むまで待って見る必要があるかもしれないね」

 絵を描く人はきっとどんな場所に絵が展示されるかなど考えて作品を創ったりしないだろう。でも、ステンドグラスはそうはいかない。窓に設置するステンドグラス作品は平面アートのようでいて、空間アートだ。作品は周りの環境に強く影響され、そして影響を与えもする。

 夕日の赤い色は、ステンドグラス越しに作品に影響を与えるが、ステンドグラスを通して部屋に届くほどではない。部屋に入ってくる光は、真昼の光よりはやや黄色みや赤みを帯びてはいるが、真っ赤なわけではないから。

「借景という考え方がありますけど……もし夕日がここからはっきり見えるなら、それ込みで作品をデザインするのもありですかね」

「面白いけど、難しだろうね。太陽の通り道は季節で大きく変わる。一日ごとだって変わるわけだから」

「確かに、そうですよね。でも、この小学校が夏のトリエンナーレの期間しか公開されないんだったら……」

「それは、ありかもね」

 実際に手を動かして作品を創る時間も好きだけれど、デザインを頭の中で組み立てる時間も楽しい。なにもない空白から、少しずつイメージが頭のなかでできていく。

 頭のなかで作るデザインは、紙の上に落としたものよりあいまいで、消えやすい分、自由度が高い。全体を赤く塗ることも、それを黄色に変えることも、瞬間的にできる。

「夕日の赤を生かすなら……むしろシンプルで、控えめな色遣いのデザインがいいですよね」

 紅葉の赤が効いているデザインの場合、夕日の赤は差し色にはならない。

「そうだね。……控えめな色の作品の方が、夕日の赤は映えるね。……それが作品単体で成り立つかどうか、だけど」

「ですね」

 この音楽室が解放されるのは、十時から十八時までだと聞いた。夏の十八時は、ぎりぎり夕日が見えるかどうかの時間だ。つまり、公開時間のうち、夕日が見えるのは、数パーセントの時間だけということになる。

「諦めますかね……」

「いや、百パーセント見えないならやめるべきだけど、数パーセントでも見えるなら、やってもいいんじゃない? 夕日目当てにその時間に人が殺到したりしたら、トリエンナーレの話題作りにもいいよ」

「なるほど、そうですね」

 そう言ったあと、私は素直に思ったことを口にする。

「新井さん、変わりましたね」

「え? そう?」

「前はそんなマーケティングみたいなこと、全然考えるタイプじゃなかったのに」

「あぁ、そうか」

「はい。新井さんは、もっと“職人”って感じでした」

「変わらないと、やっていけない部分もあるからね。……特に独立したら、一人で全部やらないといけないし」

「そうですね。……あ、でも、それは全然、マイナスの変化じゃなくて、良いことだと思います」

 私の必死のフォローに、新井さんは柔らかく笑った。

 「そういう意味では、先生は恵まれているよね。マーケティングとか考えなくたって、向こうから依頼がひっきりなしにやってくるようなアーティスト人生を歩んできたんだから」

「私たちが知らない若い頃……それこそロシアにいた頃とかは、苦労したのかもしれませんけど」

「まぁな、でも先生がW賞をとったのって、二十二歳とかだったでしょう?」

「さらに二十六歳でフランスの賞をとって、そこからもう“天才アーティスト”の地位を確立していますからね」

「アーティストとしては、本当に恵まれていますよね」

 “アーティストとしては”なんてわざわざ言ったのは多分、先生は活躍していた頃から、決してしあわせな人には見えなかったからなのだと思う。それは、独身だからとか、足が不自由だからとか、そういう分かりやすい理由ではなく、ただ先生からにじみ出ている雰囲気のようなものだった。

 そんな話をしていると、太陽が少しずつ赤く染まり始めた。柔らかく赤く染まった空気が、西側の窓の領域に入り込んでくる。

 西側の窓からは湖は見えず、遠くの山々と近くの畑や雑木林の風景が見える。湖の見える南の窓からの風景が“王道”の美しい風景だが、西の窓からの風景も悪くない。私はしばらく、風でそよぐ木々の動きや、雲の動きに心を奪われる。

 ガラス作品の制作に関わり始めてから約十年。作品の美しさに心震わせることもあるけれど、それと同じかそれ以上に、“自然の美しさには敵わないな”と思う瞬間がある。そしてなぜだろう。そう感じるときに思い出すのが、工房を出て行ったときの遼の後ろ姿だ。

「こんなこと言ったら、先生に怒られそうですけど」

 帰り支度を始め、スマホで渋滞情報などを確認していた新井さんに後ろから声をかける。

「南側の窓から見える景色が一番美しいのに、それがステンドグラスで見えなくなっているというのは、なんだか何かが矛盾している感じがしますね」

 新井さんは振り返って言う。

「確かに、それだけは言っちゃいけない」

 笑ってくれるかと思った新井さんは、意外と厳しい表情だった。

「自然の美しさと共存する作品を目指したり、自然の美しさを一つの目標にして、それを超える作品を創ろうと思うのはいい。でも、そうではなく、“こんなに美しいものがあるのだから、作品などいらない”と思うなら、それはただの負けであり、逃げだよ」

「それは……そうかもしれませんけど」

 言いながらまた、遼の姿が思い浮かんだ。最終的に先生が遼の何に怒り、遼を追い出したのか、核心の部分を私は知らない。あのとき、遼と先生は違う部屋にいて、先生の最後のきつい口調と、部屋から飛び出した遼が荒々しく扉を開ける音だけしか私は聞いていないから。

 でもその前から遼は“先生は逃げているんだ”とか、“先生の作品にはもう新しさがない”とか、そんなことを言っていた。けれど今、新井さんは、私の考えこそが逃げで、先生は逃げてはいないと言っているようなものだった。

「ま、小田さんが任されたのは西の窓のデザインだ。そこから見える風景や、湖の風景、すでにある二つの作品もよく見て考えるといいね」

 新井さんの口調はもう、いつもの穏やかなものに戻っていた。

「じゃあ、僕はそろそろ帰るけど……設置の時はもちろん、制作の段階でも手伝えることがあったら、気軽に連絡して」

 私は改めてお礼を言い、新井さんを小学校の出口まで見送った。外はもう暗くなっている。廃校になった小学校の校庭に照明はもう点かず、近くの道路を照らす街灯の光が弱く届くだけだった。

-「紫のガラス」

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