※1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新
その日は音楽室で少し新しいデザイン案を描いてみたものの、“これで完璧”と思える仕上がりには程遠かった。それで軽く昼を食べてからは、他の教室を回ってみることにした。
音楽室の隣は一年生の教室だった。小さな子供のための小さな机と椅子のセットが教室のなかに八セット置かれ、それぞれに内側から光を放つ小さな展示物が載っていた。作者らしき人の姿はない。私はそっと教室のなかに入り、一番入り口に近い場所に置かれている展示物を覗きこんでみた。
昆虫を扱った展示らしい。タブレットのような形の、でもただ光を発するだけの板の上に、大きなプレパレートのようなものが何層にも重ねられ、その途中に標本にされたバッタが飾られていた。……いや、標本に見えるけれど、実は精巧に作られた美術作品なのかもしれない。他の展示物を覗いても、バッタが蝶やトンボに変わるだけで、昆虫が光に照らされ、プレパレート状のガラスに閉じ込められている、という作品だった。
作者がいたら意図を聞いてみたかったけれど、今はいないし、展示の説明が貼られているわけでもないので、私にはよく理解ができなかった。
私は諦めて次の教室に向かった。
隣の二年生の教室は、中央に大きな生け花作品が飾られていた。生花は会期直前に飾るつもりなのか、今はまだ複数の枝を曲げたり折ったりして作った大枠に、大きな葉っぱやドライフラワーなどが複数挿された姿で、彩りは乏しかった。それでも、その作品の存在感はすごかった。まるで一つの生き物であるかのように、凛と存在していた。
校舎の奥に行くと、理科室があった。扉の上に「理科室」と書かれた札が出ているだけでなく、少し覗いただけで理科室と分かる硬質な感じがあった。理科室からは廊下まで音が聞こえていて、作業中なのは分かった。それでも思い切って中を覗いてみる。
思わず、ギャッと声が出掛かった。
エプロンを着けた骸骨が立っていた。それも四体。それが、生徒用の机についている水場で作業でもしているかのように、リアルに立っている。いや、よく見ると骸骨が二体と、人体模型が二体だ。人体模型は、理科室によくあるような体の半分が内臓や筋肉丸出しになっているもの。
人体模型そのものも怖いが、エプロンを着けて立っていると、また別の怖さがある。しかもそんなに広くない理科室に計四体!
そして作者らしき日本人の男性がその一体の立ち方の微調整をしていた。
「こ……こんにちは」
怪訝な顔を向けられ、私は慌てて挨拶する。作品はある意味ユーモラスだが、作者がユーモラスとは限らない。緊張して相手の反応を待つと、相手は「あぁ」とだけ言い、作業に戻った。まだ二十代に見える若い作家だけれど、長年家に引きこもってきたオタク系の雰囲気がある。無造作なヘアースタイルのせいかもしれない。ともかくその男性は私の話し相手をする気はないようだった。ここでも私は、作者に作品の意図や意味を訊くことはできないらしい。
だから私は勝手に想像を巡らせる。これは、理科も料理も同じで、人体模型も人間も同じだとか……そんな表現なのだろうか、とか、いや、これはもしかすると、原爆などで日常を壊された人間の姿なのかもしれない、とか。さらに、作者が作業中ということは、この作品はまだ仕上がっていないのだろうから、これから人体模型がホルマリン漬けされたネズミと包丁を手に持つとか、もっと怖い展開が待っているのかもしれない、など、謎の妄想も始める。そして、自分で自分の妄想に笑う。
と、急に「あ、君、ちょっと手を貸して」と“作者”らしき人に呼び止められた。そして私は不安定な格好で立つ人体模型をしばらく支える係りにされる。
エプロンを身に着けてはいても、やはりそれは小学校・中学校・高校で見た人体模型そのものだ。当時は気持ち悪くて半径三メートルには近づかなかった模型を、こんなふうにハグする日が来るとは。
人体模型は当然人間ほどの重さはないが、それでも大きいだけあって、それなりに重い。不安定な姿勢で立たれると、私も結構本気で支えないと、倒れてくる。つまり私は傍から見たら、人体模型に襲われているような姿になっているのだろう。
一番グロテスクな内臓部分はエプロンに覆い隠されているものの、顔の半分は皮膚が溶けたように筋肉や眼球がそのまま見え、近くで見るとやっぱり怖い。
作者は気づいたら理科室から消えている。この状態で置き去りとか、やめてほしい。
そして、すぐに戻ってくるだろうと思ったのに、五分ほど経っても戻ってこない。
「あの、すみません」
私は耐えきれなくなり、声を出してみる。それでも何の反応もない。
「すみません!」「あの!」「ちょっと!」「ねぇ、ちょっとひどくないですかっ」
自分の声に刺激され、感情も高まっていった頃、作者が何でもない顔をして、理科室の扉を開けた。
「あぁ、探し物がなかなか見つからなくて。申し訳ない」
相手は私の怒鳴り声を受けても、至って冷静沈着だった。私も聞こえていないだろうから叫んだだけで、相手に本気で怒鳴っていたわけでもないので、「あ、いえ」とトーンダウンする。
「他の三体は自前なんだけど、これは隣の理科室から拝借したものだから、なんかバランスが悪くてね」
そう静かな口調で言いながら、相手は人体模型の足元に重しを置き、ビニールテープで足に巻きつけた。応急処置なのだろうけれど、アーティストらしくないおおざっぱな作業にちょっと驚く。考えてみたらアートの世界に入ってから、周りには繊細で几帳面な人が多かった。
「ま、とりあえずこれでいいでしょう」
ようやく人体模型が自立するようになり、私は手伝いから解放された。そこで初めて私は「参加アーティストなの?」と相手に問われ、自己紹介する。
「へぇ、音楽室。僕は、ツナミ マサト。漢字はなくて、カタカナ」
漢字はなくてカタカナ、という説明に一瞬戸惑うが、アーティストネームの話だと分かる。多分、海外でも作品を展示するくらいのポジションにいる人なのだろう。感性の違いなのだと思うけれど、私が「?」と感じる展示をしているアーティストは大抵、海外で活躍している。……つまり私の感性は国内どまりなのか。
「あの……これはちなみに、何の表現なのですか?」
相手はちょっと首を傾げたあと、答える。
「えっと……うーん、その質問よく分からないけど、なんか、この光景、面白くない? なんか寝起きにふと思いついて、こんな世界があったら面白いなと思ったら、創りたくなっちゃって。……そんなもんじゃないの?」
「そんな……ものなんですね」
“天才ってやつか”思ったことが小さな声になって外に出ていたらしい。
「はは、いいね、天才」
相手は楽しそうではなかったが、かといって不快感を表すでもなく、ニュートラルな口調でそう言った。
「俺って天才なんだ、とか言えたらいいけどね。そんなことはないよ。こんなの面白いかもと創り始めるでしょう? 実際に形にするには、結構な時間とお金と労力がいる。でも、僕が面白いかも、と思ったものを、人が面白いと思ってくれるとは限らない。……家には、いつかきっと日の目を見るさ、としまわれている、人から見たらガラクタみたいなものが溢れているよ。……そんな負の遺産も含めて、表現するって、そういうもんじゃないの? とは思っている」
「考えすぎず、動けって……ことですか?」
「別に人に“動け”と言う気はないよ。ただ僕はそういうスタイルかな、というだけの話」
そこまで言うと、相手は人体模型から離れ、理科室全体のバランスみたいなものを確認し始めた。
「あの……」私が声を掛けると、「あ、ありがとう。もう大丈夫」と、相手はもう自分の世界に戻ってしまう。“芸術家”って感じだな、と思いながら、私は理科室を後にする。
二階に上る。さっき騒音を出していた五年生の教室は作業が一段落したようだ。三人の男性が教室に散らばって座り、それぞれおにぎりなどを食べている。一人は椅子を使っているが、他の二人は床に直に座っている。服装も相まって、工事現場のスタッフかなにかのようだ。
四方向の壁はすべて黒い布に覆われ、そこに写真が展示されている。さらに教室の真ん中には一辺二メートルくらいある黒い布で覆われた柱が立てられ、その柱の面にも写真は飾られている。教室の入り口から見るとそれは柱だけれど、もしかしたら中は空洞になっていて、映像作品が見れる場所になっているのかもしれない。
三人のうち椅子に座っている男性は年配で、他の二人はまだ若い。先生とアシスタントなのだろう。三人はお互いを見ず、話もせず、黙々とご飯を食べている。私は三人に気づかれないようにそっと近くに展示された写真を見る。モノクロの硬質な写真だ。撮られているのは分かりやすい形のものではないが、多分、自然の造形物の一部なのだろう。一枚は巻貝の内側を撮ったかのような、曲線型の洞窟の一部みたいな写真。その隣に見えるのは、朽ちたコンクリートを大写ししたみたいな、形より質感だけを表現したような写真だった。他の写真は入り口からは距離があり、よく見えなかった。
「おい」
一歩教室に踏み込もうか迷っていると、急に強い口調で言葉が飛んできて、思わず固まる。“わ、すみません”謝ろうとしたとき、教室のなかから「はい」という声がした。どうやら「おい」は私に掛けられた言葉ではなかったようだ。私は三人に、存在を気づかれてさえいなかった。
「その額の端、汚れてる。拭いておけ」
「はい」
ここの“先生”はかなり厳しいタイプの人らしい。
「お前はいつもそうだよな。詰めが甘い。視界が狭い。物事に対する観察力も人並み以下だ。そんなんで、表現者を目指そうなどという気持ちが分からない」
“先生”の声はぞっとするように冷たい。
早くこの場を立ち去らなくては、と頭では思うのに、私は動けなくなっていた。それは私が、白糸先生の前に仕えた先生を思い出したからだ。もう五年以上前のことなのに、二の腕に鳥肌が立つ。