※1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新
そんなふうに人の作品を見て回るだけで、その日は暮れた。
翌日私は再びアデルさんを訪ねたが、二階の教室にアデルさんの姿はなかった。ただその日はとてもよく晴れていたので、カーテンが開け放たれた窓からちょうどいい量の光が差し込み、その光によってアデルさんの木は光り輝いていた。
私はもっと自然の変化をこの木にもたらしたくて、窓を細く開けた。柔らかい風がふっと私の耳元を撫で、教室のなかに通った。すると木の枝……正確には木につけられたモールがちらちらと動き、光を散らし、木擦れのような音を立てた。
目をつむり、深呼吸すると、本当に森林浴でもしているような気持ちになる。閉じたまぶた越しに微かに光と色も感じる。
窓際に立ち、そんなふうに寛いでいたら、アデルさんが来た。
「まるで木の精みたいですね」
勝手な侵入をとがめるでもなく、アデルさんは穏やかに笑う。
「ダンスができたら、私もアデルさんの作品と何かコラボができましたね」
昨日のアデルさんのピアノを思い出して、言う。
「いいですね」
しばらくふたりで、アデルさんの作品と、この土地の空気と光と風を味わう。
他の国で生まれ、育ったアデルさんがイメージする世界と、私の頭のなかに広がる世界はきっと違うのだろう。でも、その違いは、大したことではないように思う。きっと国は違っても、そこには同じように心地よい緑の場所があるのだろうと感じられたから。
その地には、白糸先生もいたのだろうか。
「アデルさんが知っている白糸先生って……どんな人で、どんな作品を創っていたんですか?」
私の唐突な問いに、アデルさんは少しだけ驚いた表情を作った。
「そうですね。……絹子に限らず、人のことを簡潔に説明することはとても難しいです。“どんな作品を創っているのですか?”と訊かれたときと、それは似ています」
そう前置きしたうえで、アデルさんは続けた。
「まっすぐな人でした。まっすぐで、真面目で、純粋で……それは見ていて心が……何というのでしょう、ひりひりするような感じでした」
「やっぱり……そうなんですね」
「今も、そうですか」
「いえ……」
「今は……?」
今は、諦観しています。諦めているみたいです。……そんな、普段私の感じていることを、語弊なく伝えるためには、どうしたらいいのだろう。
「今は……違うのですね。そうですね、分かります」
アデルさんは私が濁した言葉の先を拾ってくれたようだった。
「あのままのスタイルで続けていたら、絹子はすり減ってしまっていたでしょう」
そうかもしれない、と思う。少しだけ有馬先生のことが思い出される。
「でも、芸術家としては……表現者としては……そういう張りつめるほどの感性は無くしてはいけない宝なんじゃないですか?」
「そうですね。でも、芸術家も表現者も、ベースは人間ですから」
「あぁ……」
「人は、変わるものです。そしてそれは……傍からは退化だとか、劣化だとか言われるかもしれません。特にすでに成功している表現者が表現を変えれば、誰かしらからは叩かれます。……でもきっと、すべての変化は成長なのです」
「すべての変化は成長……」
なんて優しい言葉なのだろうと思う。
外から吹く風が頬を撫で、アデルさんの作品をまた柔らかく揺らす。木々が揺れ、光を散らし、教室の空間全体を彩る。……そのすべてのような優しさ。
アデルさんは、美しさとは世界にすでにあるものだと言った。きっとアデルさんにとって、優しさも世界にすでにあるものなのだろう。
「先生に……アデルさんと会ってもらいたいです」
「そうですね。私も会いたいです」
アデルさんは柔らかく微笑んだ。しばらく沈黙が流れたあと、アデルさんが言った。
「小田さんの作品はできあがりそうですか?」
「いえ、まだ霧のなかにいます」
「そうですか。そこから今まで見えていたのとは違う道が、急に見えてきたらいいですね」
「見えてくるといいのですけど」
「絹子もそれを期待して、待っているのでしょう」
「先生も……?」
「弟子の成長を楽しみにしない師などいませんよ。親が子の成長を楽しみにするようなものです」
有馬先生を知っている私にそれは、性善説すぎるように感じられる。でも、有馬先生を知っていたからこそ、私は白糸先生を正しく見れなくなっているのかもしれない。だから言った。
「そうですね。先生の二枚の作品と一緒に、あの空間を最高の空気感で満たせる、そんな作品を創りたいです」
私は自分で自分の言葉の強さに、少し驚いた。
私の心の奥に、まだ弱いけれど、確かな火が灯ったような気がした。
私はそれから音楽室に戻った。外からの刺激が何かヒントになることはあるけれど、最終的に作品は、自分自身と向き合うなかで内側から生まれてくるものだから。
廊下側の隅に椅子を置き、そこに座って、じっと待つ。霧が晴れるのを。どこかから私の心に“こっちだよ”と囁く声が聞こえてくるのを。
太いフレームを使った、先生の典型的なステンドグラス作品を見つめる。最近はフレームを使わず、絵画のようにステンドグラス作品を創る作家も増えてきている。でも先生は、はっきりフレームが主張する作品創りにこだわっていた。それが“白糸絹子の作品”と世の中にも認知されているからだ。
ただ、私も同じような作品を創らなくてはいけない、ということはないだろう。
私は椅子を教室の中央に移し、そこからまた先生の二つの作品と、今は何の作品もない西の窓を見る。そして目をつむってみる。
東、南、西。春、夏、秋。
ここには夏しか来たことがない。でも当然、この地にも春や秋や冬はある。他の季節は、どんな風景を見せてくれるのだろう。それを目をつむって想像する。夏は涼しい分、冬の寒さは厳しいのだろう。近くにスキー場があると言っていたくらいだから、ここら辺も雪が積もるのだろう。
スマホを出して、この辺りの冬の写真を検索しようとしたが、すぐに止めた。違う。今、大事なのは、私の想像力だ。
雪に覆われ、真っ白になった風景。……白。
雪の白も世界の色を覆い隠す。闇の黒が世界から色を消すように。
そうか……秋でなくて、冬だ。
西の窓に描きたいのは、冬の光景だ。すべてが真っ白に埋め尽くされたところに、弱くても確かに差す赤い光。
白と赤。夕陽が差さなければ、ただ一面真っ白なだけの作品。
真っ白なステンドグラス作品。いや、それはもはやステンドグラスではないのかもしれない。
……でも……それでもいいじゃないか。
色々な種類の白いガラスを集めてきてステンドグラスにしてもいいし、ステンドグラスの手法にこだわらず、ガラスに彫刻を施して、真っ白な作品を創ってもいい。ラリックが香水瓶に施したような精密で美しい彫刻が施された窓……。
その透明と白と、ガラスの厚みの違いが生み出す影の黒、それだけのモノクロの世界。そこに夕陽の赤がすっと差す。
そんな世界を、私は見てみたい。
私が見たい。
それ以上に制作において大事なことはあるだろうか。
“仕上がりを想像して、自分の胸が高まるような、そんなデザインを作りなさい”先生はそう言った。
まずは私の頭のなかにだけある世界を、デザイン画にしてみよう。
私は鞄から急いでスケッチブックと鉛筆を取り出し、絵を描き始めた。
仕上がったデザイン画を西の窓に立てかけるように置き、少し離れたところから見る。デザイン画は実際のサイズの五十分の一くらいだけれど、イメージのなかだけで西の窓全体に広げてみる。
なんだか遼に見せてもらったモノクロの写真みたいだなと思う。色はないのに、白と黒の濃淡だけで、ふわりと微かな色が立ち上るように感じられる。色が立ち上るのは、目の奥でなのか、脳の奥でなのか、それとも心の奥底でなのか。
この窓の作品が仕上がったら、遼に見てもらいたい。
急にそう思う。
そのとき、スマホが震える。私は驚いて、ポケットからスマホを取り出し、表示されている名前を見る。もちろん、掛けてきたのは遼ではなかった。
「新井さん? どうしたんですか?」
驚きも失望も表さないように気をつけて、電話に出た。
「いや、新しい作品は順調かな、と思って」
「ずっと順調じゃなかったんですけど、ようやく見えてきました」
「そっか。だったら、ベストタイミングだったね」
「いえ……どうせなら、悩んでいるときに相談に乗ってもらいたかったです」
新井さんは、はははと笑う。
「でも、見えてきたなら、僕の助けは必要なかったということでしょう」
「そっか。そうかもしれませんね」
「そう断言されると、それはそれで淋しい」
今度は私がはははと笑う。
「で、どんな作品になりそうなの?」
そう新井さんに問われ、私は白一色の作品を創りたいという想いを話す。
「へぇ、白一色……」
「もはやそれって、ステンドグラスではないかもしれないんですけどね」
「そっか。……そうなんだね。……びっくりだな」
新井さんは最後の方は独り言のように言った。
「びっくりって……何がですか? 私がステンドグラスじゃないものを創ろうとしていることに対してですか?」
「いや」
新井さんはすぐ否定したが、代わりに理由を説明することはなかった。
「小田さんが創りたいものを創るといいよ。先生もそう言っていた」
「……先生も?」
「あ……」
新井さんはいたずらを見つかった子供みたいに笑い、続けた。
「先生にね……電話してみてって頼まれて、したんだ」
「そう……だったんですね」
「うん。だから、どんな方向であっても、小田さんが自分で答えを出せて良かったと思う。僕も思うし、きっと先生もそう思う」
「ありがとうございます。帰って先生にこのデザインを見せてみます」