久しぶりの更新になってしまった💦
4月から子供が小学校5年生になったので、「そろそろ子供部屋を作るか」となり、しばらくそれでバタバタ。
寝室を子供部屋にしたので、2台あったベッドのうち1台を私の部屋(一応書斎?)に引き取ることになり、新しい家具を買ったり、使わなくなった家具を解体したり、そこに入っていた物の新たな定位置決めをしたり……と、意外とやることがあり。
一か月半くらい常にメジャーを持ち歩いていたし、頭の中は「あれをこっちにやって、そうするとこれがあそこに入るんじゃないか?」みたいな思考でごちゃごちゃし始め、大したことじゃないはずなのに、なんだかとても大変な感じになっていた。
心がしんどくなるのって、外で起こった出来事の大小ではなくて、それによって自分の心に起こる波の大きさのせいの気がする。
そして、心に起こる波の大きさを左右するのは、自分の心を客観的に観察できる“意識の力”や“気づきの力”がどれくらい身についているか。
つまりは、日頃、瞑想など、どれだけ“気づき力”の鍛錬をしているか。なんだな。
子供部屋づくりが終わったら、今度はマンションの大規模修繕工事が始まり、その準備(ベランダの片づけとか、網戸外すとか)でバタバタ。
準備が終わったら、本格的に工事が始まり、至る所でががががががっと音が鳴り始めるし、窓の外を作業員さんが右へ左へ通り落ち着かないし……で、また心と頭の静寂を見失う💦
と……心の鍛錬がまだまだ足りていないなと痛感していた今年の春でした。
Contents
ぬん×高野山 ヨガ合宿
そんな日々を過ごしていると、3月に申し込んでいたヨガ合宿の日に。
以前、下記の記事で、「この動画を活用すると瞑想が習慣になるよ」と紹介したことがある、ヨガ講師・ぬんさん。
ぬんさんのYouTubeにはまったきっかけは瞑想や呼吸法の動画だったけれど、ヨガのプラクティスや(結構緩めなのが多い)、ヨガ哲学やその周辺の思想などについて語ってくれている動画もあり、2年前からいろいろな動画を見るようになった。
で、去年秋からYouTubeでメンバーシップ(月額料金を支払うと、瞑想やヨガプラクティスの会員限定ライブに参加できる、という感じのもの)も始まったので、年末からそれにも参加。
ぬんさんは神戸でヨガスタジオをされているのだけれど、私は千葉県民なので、数時間のクラスにわざわざ新幹線に乗って通うのは現実的でなく、“いつか関西に旅行にいくついでに、参加できるクラスとかあったら行ってみたいなぁ”くらいに思っていた。
そうしたら、メンバーシップの中で合宿について質問した人がいて、“え? 合宿なるものがあるのか?!”と調べたら、最近の私の一番のパワースポット・高野山が開催地じゃないか!! ぬん×高野山=行くしかない! と、気づいたら申し込んでいた。
(私のように、YouTubeから急に合宿という人は25人中3人で、ほかの人には“なんの講座も経ずに、急に合宿? 思い切りましたね”みたいに言われ、そうなのか、と(笑))
心の姿勢:何をするかより どこを目指してそれをするか
3泊4日の合宿は、予想以上に自分にとって大きな意味のあるものになった。

それはそう簡単に言葉にはまとめられないけれど、
一番大きかったのは、心の姿勢と身体の姿勢を本気で変えたいと思ったこと
瞑想もヨガのプラクティスもそれだけでとても良いものだし、誰であっても、やらないよりやったほうがいいと、私は思う。
でも今まで私は、あくまで“自分にとって良い”から、良いと思っていた。
ヨガのプラクティスはそこまでハードでないのに、肩こりを中心に体がほぐれるし(ヨガは十数年やってきているけれど、もともとは肩こりが良くなるという理由だった)、筋トレほど直接的ではないけれど、まじめに継続していれば、筋肉もつくし、年齢的な衰えを予防できる。
瞑想も、習慣になるほどやれば、絶対に性格が変わる。そして、自分がとても生きやすくなる。
そうやって性格が変わったり(基本、穏やかで優しくなると思う)、心に余裕ができれば、周りにも良い影響になる。
それはもう自動的に。
でも、というか、だから、というか、私は、「ヨガを人のため、社会のためにやっている」なんて考えたこともなかった。
でも、ヨガの教えをちゃんと深めていくと、ヨガの修練自体、神様や世界に捧げるためにするものらしい。
今回の合宿は宿坊に泊ったけれど、お坊さんが仏様のために修行するのと似たように、ヨガも自分を超えた何かや社会や世界に役立つために、役立てる自分になるためにやるものだ、と。
ま、そういう意識を持たなくても、自動的に世界に良い影響を与える方向に変化していけるものなら、それもそれでいいとは思う。
でも、ぬんさんはヨガの教えだけでなく、社会思想家のサティシュ・クマールさんの影響なども受けていて、自分の行動を決める指針として、常に、当たり前に、「これは社会・世界にとって善いことか」という問いを持っているようだった。
それに、なんかとても感銘を受けた。
うまく言えないのだけれど、「世界平和を目指す」とか言うと、なんか力が入る感じがする(私は)。
嘘くさい感じがするし、偽善的にさえ思える。
なんか自分のキャパを超えた大きなことをしなくてはいけない気がして、考えただけで疲れる感じもする。
だから、「世界平和」とか言っている人の9割は、自分をよく見せるために言っているだけじゃないかと穿って(うがって)見てしまうし、残りの1割はもう自分とは違う“聖人”なんだ、とか思う。
でも、ぬんさんと、ぬんさんのそばでスタッフとして働いてくれていたなぎさんを近くで4日間見ていたら、
“あぁ、人は別に無理せず、緩い自分のままで、社会のため世界のために生きられるんだな”と思ったというか、
むしろ無理しない、そのままの自分だからこそできることがあるんだな、とか、
今目の前にある小さなひとつのことを丁寧にすることが、大規模な反戦デモを先導するよりずっと世界平和だったりするんだな、とか、
そんなことが理屈でなく、ふわりと自分の心に入ってきた感じがした。
そして私自身は、「引き寄せの法則」界隈(?)で、自分の望みと向き合って生きることに、最近ちょっと疲れていたのかもしれないと思った。

身体の姿勢
身体の姿勢については、心の姿勢に比べると小さなことだけれど、
4日間ずっと畳など床生活だったから、ものすごい体幹が鍛えられた。
逆を言うと、普段、背もたれや壁に頼りすぎて、自分で自分の姿勢を保つ努力を怠りまくっているということに気づいた。
“下腹出てくるのは、年取って女性ホルモンが減るせいで、しょうがないよね”と思っていたけど、ちがーう!
お前の怠惰が原因だ!! と、体幹に叱られた気がした💦
そして腰立てて、背筋を伸ばしていないから、肩が前に入って、固まっている。
それが肩こりの原因でもあり、ヨガでできないポーズの原因でもあったと分かり、衝撃だった。
そして、肩が中に入り、うつむく姿勢になると、胸にあるハートチャクラの機能が弱る。つまり、オープンハートじゃなくなる、と。
ま、まさに……。私の悪循環を指摘された気がした。
瞑想したり、ネドじゅんさんの“右脳回帰”の練習などしていると、調子がいいときは、「思考は私ではない」ということが分かる。
思考はどこかから勝手に湧くものであり、「私」とは本来、勝手に湧く思考や感情を離れて「見守る」気づきである、と。
そうであるなら、人に対して距離を取ろうとする心の癖や思考の癖も、ゆがんだ体が勝手に生み出したもの。
姿勢が整い、ハートチャクラにエネルギーが流れ出すと、人へのやさしさもまた、勝手に湧く。
今回、本当、誰も知っている人がいないなかに単身乗り込んでいったわけだけれど、びっくりするほど自分がちゃんとそこに溶け込めていた。
それは、「ぬんさんのヨガが好き」というフィルターが掛かったメンバーだから、というのは、もちろん、ある。
でもそれだけじゃなくて、“え、なんで私、さらりとこんなことしているんだろう(言っているんだろう)”と自分で意外に思う行動を取ったりもしていた。
普段の私だったらしない距離の詰め方とか、優しい行動とか。
それって本当、毎日ヨガの身体的プラクティスをして、いつもより姿勢が良くなり、ハートが開いていたからなんじゃないかと、本当に思った。
そう考えると、身体の姿勢も非常に大事だし、「性格」ってなかなか変えられない「自分のもの」という感覚があるけれど、本当にそうなのかな? と思ったりもする。
人間、もっと柔軟なんじゃないか、という気づき、かな。

一呼吸ごとに進化する
あと、プラクティスでは、「一呼吸ごと 少しずつでも進化する意識で」ということも習った。
吸う息で準備をして、吐く息で一息前より、ほんのちょっとでも何かを良くしよう、と。
それは「前よりちょっと安定する形を探す」とか「前よりちょっと快適に感じられる手や足の角度を探る」とか、そういう小さなこと。
最近、年齢的にもう“現状維持できれば万々歳”なのかな、みたいに諦めていた部分もあったけれど、改善をあきらめちゃダメだな、と思った。
「20代のようにスポーツをしよう」と目指すのは間違っているけれど、すっと背筋を伸ばして座っていられる時間を毎日1分ずつでも長くしていこうとか、毎日ちょっとずつ心の面でも体の面でもハートを開いていけるようにしよう、とか、そんな進化・成長への欲はちゃんと持っていようと思った。
そう思えたのも、大きかった。

ある人を目指すのではなく、その人の目指す方向を共に目指す
あと、ぬんさんは頻繁に「自分の師」の話をする。
しかも一人ではなく、ヨガ全般の師匠、瞑想の師匠、生き方の師匠、みたいにたくさん師がいる、と。
そしてその師匠の師匠は誰だれで、それを遡っていくと誰だれに行きつき……みたいなところまで。
今ちょっとヨガナンダの自伝(『あるヨギの自叙伝』)を読み始めたのだけれど、それも自分と自分の父の師は誰だれで、その師は……と、師の写真から始まる。
つまり、ヨガって、そういう世界なのだろう。
でも、それもなんかいいなと思った。
最近、強烈なインフルエンサーとかも生まれて、「全面的にあなたについていきます」みたいなファンも増えてきているように思う。
でもそういう場合、その一人の人がおかしくなってしまったら、全員がおかしな方向へ行ってしまう。
それって危険。
だから、目指したい人を持つより、この人の目指している方向を自分も向いていきたいと思えることが大事なのではないかと思った。
「人」に意識を向けすぎると、やっぱり無駄なエゴが生まれるから。
高野山という場の力
そして最後に。
やっぱり高野山という場の力はすごいと思った。大好きな場所。
今までは、片道6時間くらいかかるのに、1泊2日で行っていたから、大好きな奥の院以外はあまりちゃんと見ていなかったけれど、今回は壇上伽藍から徒歩1分みたいな素敵な立地のお寺だったので、朝はすがすがしい空気のなかで散歩し、夜はライトアップされた神々しさのなか探索でき、とても良かった。

奥の院は、泊っていたお寺から入り口まで2キロ、大師御陵まではさらに2キロと距離があったものの、4日間で2回行かれて、それも良かった。
1回目は2日目の昼休憩時間に、休憩時間になるや一人でバスに乗り込み単身で。
2回目は行きのケーブルカーで一緒になった人に誘ってもらい、早朝に2人で。
5:15に出て、7:25の朝食までに戻るというすごいスケジュールだったけれど、早朝の奥の院は初めてで、とても良かった。
遠くの山が朝靄のなかうっすらと稜線をあらわすところや、朝の光が樹齢7、800年の杉の木に差し込む風景。心が洗われた。
5時台に出発して朝行くとか自分では考えつかなかったから、誘ってもらえて良かった。
と、本当、充実した、プレシャスな4日間を過ごすことができた。感謝しかない。
今までしたことがないことに一歩踏み出すって勇気がいるけれど、「やってみたい」という感覚がきたなら、やってみるとやっぱり良いと思う。
何歳からでも、いつからでも、人は変われるよなと思う。