「紫のガラス」

紫のガラス 1-2

1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新

 

「最近、遼くんとは連絡している?」

 急に背後から問われ、私は慌てて振り返る。

「え? 全然ですよ。新井さんは?」

「もちろん、俺は全然。……小田さんは連絡取っているのかと思ってたから」

 私たちは確かに付き合う直前みたいなところまでは行った。でも、実際に付き合う前に工房でのごたごたがあり、遼は辞め、そのあと数回連絡を交わすだけで、疎遠になってしまった。

「何しているんだろうね、遼くん」

「何かしら物は作り続けていそうですけどね」

「そうだね」

「やっぱりここに来ると、三年前を思い出しますよね」

「うん、嫌でもね。……あの頃はどうだったなとか、あんなことがあったな、とか」

 大きな南の窓からは、広い湖が見える。ステンドグラスは窓の三分の二ほどの高さで、上と下には透明なガラスのままの部分があり、そこからは実際の湖や緑、空の色が見える。

 三年前、私たちは……つまり私と、まだ先生の助手だった新井さんと遼と、今よりは“現場”にちゃんと来ていた先生の四人はここで作品を創ったり、設置したり、微調整したりした。そして、会期が始まり、お客さんが入るようになってからは、お客さんの反応について情報交換したり、ああでもない、こうでもないと意見を交わしあったりし、暇な時間は三人で湖まで散歩に行ったり、近くのレストランでランチを食べたりした。

 あの頃は忙しく、充実していた。三人は決して同じ方向を向いていたわけではないけれど、仲は良く、いつも笑いあっていた。

 大きな作品の設置は力仕事だから、右側を遼が、左側を新井さんが持って作品を持ち上げ、私が少し離れたところから、「右が上がりすぎている」とか「もう少し全体的に下げて」とか、そんな声を掛けた。先生の作品は“ステンドグラス”という言葉から多くの人が想像するより、ずっと控えめで穏やかな色味で、いつも派手な色合いのTシャツやパーカーを着ていた遼と、黒や白のシャツやポロシャツが多い新井さんに囲まれ、派手さのグラデーションみたいだなと思った。

 そんな私の姿は、二人からステンドグラス越しやステンドグラス脇に見えていただろうけれど、どんなふうに映っていたのだろう。

「大変だったけれど、なんか三年前のこのトリエンナーレのときは、学園祭の準備みたいな気分でしたよね」

「あぁ、確かに」

 そんな話をしていると、廊下から足音が響いてきて、急に音楽室のドアが開いた。振り返ると、大柄な男性が立っていた。どこの国の人かは分からないけれど、明らかに日本人でもアジア人でもない彫りの深い顔立ちをした栗毛の人だった。

「こんにちは」

 その人は、少し外国訛りのある発音で言った。

「あ、こんにちは」

 挨拶をされたので、礼儀として返してみたものの、相手が誰なのか分からない。間違えて早く来てしまった観光客なのか、通訳か何かをしているトリエンナーレ事務局のスタッフの人なのか。でも相手は私たちの動揺には無頓着で、迷いなく音楽室に入ってきた。

 男性は少し距離を置いて、南の窓の前に立ち、先生の作品をじっと見た。それから目をつむり、深呼吸をし、再び目を開けると、ワンダフルとか、ファンタスティックとか、賞賛の言葉を英語で連呼し、それから私たちを見るとゆっくり頷き、「お綺麗です」と言った。間違いではないけれど、少し違和感のある日本語だ。

「ありがとうございます」

 新井さんが言い、「ところで」と続けた。多分、相手が何者か尋ねようと思ったのだろう。でも相手の方が口を開くのが早かった。

「白糸絹子さんは、どちらにいらっしゃいますか?」

 相手は急に先生の名前を言った。しかもフルネームで。

「あ……先生は今回、会場に来ていなくて。……先生のお知り合いですか?」

 相手は残念そうな顔をした

「久しぶりに会えるかと思っていたのに。……二十年ぶりですね」

「二十年……」

 そんな話をしている間に、太陽は徐々に南の上の空に移動していき、光の角度も色合いも変えていく。相手は先生の作品をしばらく見つめたあと、改めて私たちを真っすぐに見る。

「私は……アデル・シュフェレフと言います。アーティストです。二階の部屋で作品の展示をする予定です」

「あ、参加アーティストさんだったのですね」

「こんな作品を創っています。お暇になったら、二階にも遊びに来てください」

 アデルさんはそう言って、自分の作品の写真が表示されたスマホの画面を見せた。

 以前美術館で行われた展示の様子らしく、六、七本の柱が立てられた広い空間の写真だった。柱と言っても天井までの長さはなく、どれも一メートルから一メートル半ほどで、上部には引きちぎられたかのような不思議な凹凸があった。

 柱はすべて元は白かったようだけれど、床から一定の高さまで、水に浸かったかのように青く染められている。何を表した作品なのか分からないけれど、津波によって荒廃した町の表現のように感じられる。

「アデル……さんは、どちらの国の方なのですか?」

 ファミリーネームは日本人には難しく、覚えられなかったので、ファーストネームで呼ばせてもらう。名前の響きはロシアっぽい。

「ウズベキスタンです。ただアーティストとしての活動拠点は、ロシアだったり、ドイツだったりします。絹子とは、ロシアで会いました」

「ロシアで……」

 出不精の先生が海外に行くなどイメージできないが、二十年前は違ったのだろう。

「一緒に作品を創ったり、仲間で集まってパーティをしたり、楽しい時間を過ごしました」

「そうだったのですね」

 アデルさんは遠い目をした。

「もし先生が来るようでしたら、アデルさんが二階にいると伝えます」

「はい、ありがとうございます」

 アデルさんはにっこりと笑った。アデルさんは先生と同じか、もっと上の年齢に見えたけれど、笑顔や醸し出す雰囲気は純粋で、若々しかった。

「そういえば」

 アデルさんの姿が見えなくなってから、新井さんが言う。新井さんが言いたいことは私にも分かる。

「うん……遼も」

「ロシアのあたりの血が入ったハーフだったよね」

 遼自身は日本にしか住んだことがないと言い、話すのは完全な日本語だった。でも、見た目は、鼻が高く、彫りが深く、繊細な中身とは対照的にがっしりとした骨格をしていて、欧米の血が濃そうだった。

「遼は二十年前、先生とロシア人のあいだに生まれた、先生の隠し子だったとか?」

 新井さんの言葉に私は噴き出し、新井さん自身も笑った。

「ありえない」

「ありえないな」

「そもそも遼って今は二十二、三歳くらいじゃない?」

「ま、二年くらい、アデルさんの記憶の誤差範囲じゃない?」

「でも、それにしても」

「そう、ありえないよな」

 そんなことを言い合い盛り上がっていると、私の携帯が震えた。

「西側の窓は、それでいいですか?」

 先生からのメッセージはその一文だけだった。どういう意味? 私は戸惑い、新井さんに私の携帯の画面を見せた。

「それでいいですかって……それは先生が決めることでしょうに」

 新井さんも私の戸惑いを代弁したかのような言葉をつぶやく。

「ダメですと言ったら、先生はどう言うんですかね」

 私の問いに新井さんはちょっと笑った。

「今年のトリエンナーレが始まるのはいつからだっけ?」

「来週の金曜日からです」

「となると、あと十日か。……搬入、早いね」

 確かに、私も思っていた。先生はさほど忙しくなくなった今でも、“余裕を持ったスケジュールで動く”ということを滅多にしない。その先生が、搬入日として今日を指定したのは、早い。早すぎるくらいだ。

「でも、さすがに十日で新しい作品を創って飾るのは無謀すぎるでしょう」

「それはね。このサイズで……デザインもまだないのに……無理だね」

 二人の意見はそこに落ち着く。

「じゃあ、先生には何て返事しましょう」

「それは現在進行形の弟子である小田さんに任せる」

 新井さんは早々に逃げに入る。私はさすがに“ダメです”とは書けなかったけれど、「やはり三方向に窓があって、一枚だけ作品がないと、やや物足りないようにも思いますね」と送った。

 私に任せたはずの新井さんは、私が書いた文面を横から覗きこみ、送信した後になって、「先生相手になかなか勇気がある」と言った。

 メッセージを送ると、また先生から返事は来なくなる。そんなに忙しいわけでもないだろうに。

「先生、気を悪くしたんじゃない?」

 新井さんは私を不安がらせようと意地悪なことを言う。

「ま、大丈夫ですよ。それにしても、お腹空いてきましたね」

 そう言った途端、タイミングよくお腹が鳴った。

 それで、先生の返事を待ちながら、湖の方へ出かけようということになった。

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