「その影を」

紫のガラス 3-2

1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新

 

 トリエンナーレ開幕まで一週間を切ったせいだろうか、学校に近づくと、二日前には感じられなかった熱気が校舎全体から漏れ出てきているのを感じ、驚いた。空いた教室の窓から人の声が聞こえ、校舎の出入り口から大きなパネルを運び込む人や、逆に校舎の裏側に木材やペンキを持って出て行く人が見えた。

 音楽室は二日前と変わらない。ただ今日は雨は降っていないものの、雲が厚いため、晴天だった前回とは音楽室全体の空気感が違う。外的要因すべてを考えてデザインすることなど無理だけれど、夕陽が見えないかもしれない曇った空を見ると、やっぱり前回のデザインではダメな気がする。

 デザインは、すっと浮かんで、形になったものの方が、あれこれ考え、いじくりまわした後にできるものより良いものになるように思う。一度袋小路に入り込んでしまうと、抜け出せなくなる。

 そして、晴れでも曇りでも、朝でも夜でも、春でも冬でも見せられる作品にしたいなどと考えていくと、どっちつかずの八方美人な中途半端なものになってしまう。

「あー、分からなくなった」

 今回は新井さんもいないし、音楽室には私一人なのに、敢えて声を出して言ってみる。声を出すことで、頭のなかのもやもやが少し散ってくれる気がして。

 さらに気分を紛らわせようと、窓を開けて、身を乗り出し、外の空気を吸う。窓を開けると湖がそばに迫って見える。また散歩にでも行こうかと思う。そのとき、上の方から何か大きなものを移動させているような騒音が聞こえてくる。

 二階……と思い、アデルさんのことを思い出した。

 

 思った通り、二階の教室にアデルさんはいた。アデルさんの展示室は四年生の教室で、騒音を響かせているのは五年生の教室だった。アデルさんの部屋は静かだ。すでに展示の準備は終わっているのか、教室の中央に木のオブジェが静かに立っている。

 木のオブジェはクリスマスツリーに似ている。材質は分からないが、針葉樹を模した二メートルほどの高さの木で、そこにモールのようなものが取りつけられている。クリスマスツリーは通常、長い、金色か銀色のモールがぐるぐると巻きつけられているが、アデルさんの木のオブジェは、一枝一枝に異なった色のモールが取りつけられ、枝とモールが一体になったような形だ。

 モールの毛足が長いから、窓を開けていなくても、それは微かに動き、ちらちらと光を舞わす。

 アデルさんは教室の片隅に置かれた椅子にじっと座っていた。まるでアデルさん自身もオブジェであるかのように。座った場所から高い木を見上げるアデルさんは、彫りの深い顔立ちも手伝い、映画のワンシーンのように絵になっている。

 だから一瞬、声を掛けるのをためらったが、控えめな声で「こんにちは」と言うと、アデルさんは勢いよく立ち上がり、西洋人らしい大きなパフォーマンスで歓迎を示してくれた。

「絹子の展示は準備、終わりましたか?」

 私は一瞬躊躇したが、「はい」とシンプルに答えた。

「そうですか。それは良かったです」

「アデルさんの展示もこれで完成ですか?」

 私の問いには答えず、アデルさんは教室のなかを一通り見回す。そして一つ息を吐いてから、ゆっくり口を開いた。

「あなたも、アーティストですか?」

「アーティスト……?」

 アーティストというのは、幅広い意味を持つ言葉だと思う。相手は何をもって、私をアーティストかと尋ねているのだろう。

「絹子のお手伝いですか? それとも、あなた自身も作品を作る一人ですか?」

「あ……まぁ、作品も作ります」

 歯切れの悪い答えに、自己嫌悪感が芽生える。私も自分はアーティストなのだと、もっと堂々と定義し、名乗りたい。

「そうですか。それなら、YESですね」

 私は頷く。

「それなら、あなたにとって、作品の完成とは何ですか?」

 急に哲学的なことを問われ、たじろぐ。私が気安く口にした“完成”という言葉が、相手には思ったよりも強く響いてしまったということなのだろうか。

「完成というのは……」

 作品が仕上がること。そこで作り手の役割が終わる場所のこと。でも……

「作品の本当の完成はないかもしれませんね。いい作品ほど、進化していくものの気がします。……だから、ここでいう“完成”というのは、作り手が鑑賞者に制作をバトンタッチする、その段階のことでしょうか……」

 私の返事に、アデルさんは満足そうに頷いた。私は自分の口から出てきた言葉に、自分で驚いていた。

「いい答えですね。あなたは素晴らしいアーティストです」

 そう言うとアデルさんは窓の方へ歩き、カーテンを閉めた。今日は曇っているから、外から光は差さないが、それでも外からの光がなくなると、教室の中央に設置された木のオブジェは色をなくし、シルエットに近い印象になる。

 アデルさんは何の説明もしないまま、今度は部屋の四方に置かれているライトの光を灯す。ライトにはそれぞれ元々色がついている。木のオブジェにつけられたモールの色とライトの色が時に手を取り、時に反発し、不思議な色がオブジェから立ち上る。さらにアデルさんがスイッチを操作すると、木のオブジェはゆっくりと回り始める。木のオブジェ自体が光に照らされて、様々な色に変化し、さらにモールの光沢で反射した光が壁や天井に様々な色の影を落とす。反射された光に、モールの色は影響しないから、壁や天井の影の色は、照らすライトそのままの色だ。

 あまりに多くの色が狭い教室のなかに存在しすぎていて、目や頭がくらくらする。それでも、しばらく見続けていると、不思議な安堵感が胸の内に広がる。混沌こそが実は世界の根本なのではないかとさえ思う。

 ぼんやり回る木を見つめていると、控えめな音で讃美歌のような音楽が聞こえ始める。やはりこの木はクリスマスツリーを模したものなのかもしれない。讃美歌の音量が少しずつ大きくなっていく。混声合唱団の歌らしい。様々な声が混ざり、それでも一つ曲にそれはまとめあげられている。

 しばらくその色と光と音の世界に浸っていると、音楽が止み、木の動きが止まり、光が消えた。世界には微かに光が回る控えめな暗闇と、そこに立つ色のない木のオブジェ、そして私とアデルさんだけになる。世界が、しんとしている。

 アデルさんの足音が聞こえ、カーテンが開かれる。外の光が入ると、日常が戻ってくる。

「どうでしたか?」

 アデルさんは私に訊いた。

「不思議な感覚でした」

 気の利いたコメントを思いつけず、私はそれだけ言うが、アデルさんは満足そうだ。

「光と色には無限の可能性がありますよね」

 そうですね、と頷きながら、私は思う。若い頃の先生は、アデルさんたちとどんな話をし、どんな想いで作品を創っていたのだろう、と。

「天気が良い日、外からの光が差し込んでいると、この作品はまたまったくちがうものになります」

「そうでしょうね」

「なのでまた、天気の良い日にも遊びに来てくださいね」

 確かに、これだけの顔を見せる作品にとって、“完成”とは何かなど、問うのも愚かなのかもしれない。それはきっと、先生や私が創るステンドグラス作品にとっても。

「アデルさんは、色々な作品を創っているんですね」

 以前見せてもらった作品の写真を思い出しながら言う。前に見せてもらったのは、複数の青い柱が立つ空間の写真だった。

「そうですね。私は手法にはこだわっていませんから。色々な材料で、色々な形で、でも伝えたいことをいつも伝えています」

「伝えたいこと……」

 私が作品を通して伝えたいことって何だろう? 作品の美しさ? 色や光の美しさ? そう考え始めたとき、アデルさんは言った。

「それは、きっとそんな難しいことじゃないですよ」

「え?」

「そして……言葉にはなりづらいものですね」

「言葉になりづらいもの……。じゃあ、美しさとか、そんなものではないのですか」

「そうですね。私は“美しい”ということをわざわざ伝える必要はないと思います。それは、ただあるものだから。世界に」

「世界に……」

「はい。美しさは、世界にあって、私はただそれに感動する側です。私のなかにあるのは……その美しさからもらった、ぼんやりとした、捉えどころのない、感情……感覚……そんな感じのものです」

 アデルさんの言っていることは、分かるようで、分からなかった。でも一つ分かったことはあった。それは、アデルさんは作品だけでなく、作品を創る自分自身のことも少し離れて客観的に見る視点を持っているのだということ。

「今、音楽室には二つ先生の作品があるのですけれど」

 気づくと私は、アデルさんに悩み相談を始めていた。西側の窓にはめるステンドグラスのデザインを任されたけれど、それに今行き詰っているのだということを私は話した。アデルさんは私の話を静かに聞き、聞き終えると言った。

「じゃあ、とりあえず音楽室に行きましょう」

 そして柔らかく笑った。

 

 

「なるほど」

 音楽室に入ると、アデルさんは急に言った。何を受けての“なるほど”なのかよく分からない。

「何か分かったのですか?」

「ええ、少し」

 そう言いながらも、アデルさんは“なるほど”の理由は明かさず、南の窓に近づいて作品を見、次に東の窓に移って、またじっと作品を見た。

 アデルさんと初めて会ったとき、すでにこの二つの作品は窓にはめられていたから、特別何が変わったでもないはずだが、アデルさんは興味深そうに二つの作品を見つめ、それから二つの作品からちょっと離れて、今度はピアノの側に立った。

「確かに、難しい」

「え?」

「なんというか、完成していますね」

「西の窓はそのままでも?」

「ええ」

 先生もそう思って、作品を敢えて創らなかったのだろうか。私は西の窓に近づき、改めてそこからの風景を眺める。確かに、ステンドグラスのない、純粋に明りを取り込む窓が一つあってもいいのか、などと私まで思い始める。

 でもそのとき、急にピアノの和音が大きな音で響き、私は驚いて振り返る。ピアノの前に座ったアデルさんがいたずらっ子のように笑っていた。

「こんなふうにすれば、バランスは崩れて、また完成は遠ざかります」

 そんなものなのだろうか。天才系アーティストの感覚はよく分からない。

「そう……なんですか?」

「そう、感じませんか?」

 私はよく分からないままで、適当に肯定の返事をしたくはなかったので、黙る。

「絹子の作品は完璧です。でも、完璧なところに、弱点もあります。……そう考えてみたらどうですか?」

 私はもっと踏み込んだアドバイスが欲しかったが、アデルさんは“この話はここまでです”とでも言うように、口を閉ざした。そして、ピアノを弾き始めた。

 聴いたことのない曲だけれど、和音が多用された、弾くのが難しそうなクラッシック曲だった。それをアデルさんは鼻歌混じりに軽やかに弾きこなした。ピアノの音が空間を満たすと、確かに空間の空気感はがらりと変わり、温度や質感や体の内側の感覚もすべて一気に変わるようだ。

 風穴が開くというのは、こういうことを意味するのかと思う。

 窓は閉ざされているのに、新しい風がどこかから吹いてきたようだ。

「一人で完成させる作品もいいけれど、人と一緒に完成させる作品もいい」

 アデルさんは一曲弾き終えると、ピアノから手を放し、口を開いた。

「絹子はそんな、次の段階に進みたがっているのかもしれません」

 そんなふうに考えたことはなかった。先生はもう作品創りへの情熱をなくしてしまったのだと思っていた。でも……そうではないのかもしれない。

「あなたも充分わかっていることだとは思いますが、作品創りに正解はないですから。気楽にいきましょう」

 私が「はい」と返事をすると、アデルさんはまた違う曲を弾き始めた。これだけ上手いなら、トリエンナーレ会期中に先生のステンドグラスとアデルさんの演奏のコラボ作品をお客さんに味わってもらってもいいかもしれない、などと思う。いや、先生と私とアデルさん、三人の作品だ。

-「その影を」

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