「紫のガラス」

紫のガラス 3-4

1-1から始まっています。
※火曜日・金曜日更新

 

 美大を卒業した私は、最初、画廊に就職した。一応、正社員という形だったが、オーナーが手の回らない雑用を一手に引き受けるアシスタント的な仕事だった。

 美大を卒業しても、多くの友人は美術とは何の関係もない一般企業に就職した。私も最初はそのつもりだった。大学内にある就職活動相談窓口に行くと、カウンセラーの先生は言った。

「美術系だけでなく、文系の多くの学生も、就職先でみんな横一線に並んで、“よーいどん”で初めて、似たようなスピードで出世していくものだから、美大出だということをそこまで意識する必要はないと思う」

 実際同期の友人はどんどん就職を決めていった。人と違った発想力があるとアピールして、新しいアプリを次々開発しているベンチャー企業に就職を決めた子や、学内の大規模な展示のまとめ役をしたことをアピールし、大企業に就職を決めた子もいた。でも私は一般企業で“普通”に働く自分がうまく想像できなかった。

 当時卒業制作を見てもらっていた工芸科の先生に相談すると、「ぎりぎりまで就職活動はしたほうがいいんじゃない?」と言いながらも、知り合いの画廊を紹介してくれた。私は大学四年生の秋からそこでアルバイトを始め、そのまま雇ってもらうことになった。

 画廊の仕事は暇だった。オーナーはもう七十過ぎのおじいさんで、いつ店を閉めようかと機会をうかがっていた。以前は画家も、その画家をひいきにするお客さんも抱え、さらに海外にも出向き、意欲的に作品の買い付けを行っていたらしいが、今はもう美術作品に高いお金を払う人はほとんどいなくなってしまったと、オーナーはいつも嘆いていた。

 私が“就職”して八か月後、「年内いっぱいでここは閉めようと思う」と、オーナーは言った。そして、画廊でも複数の作品を取り扱っているガラス工芸作家の有馬さんという先生を紹介してくれた。

 有馬先生には二度だけ会ったことがあった。オーナーよりは若いけれど、年配と言っていい年齢で、上質なジャケットを羽織り、背筋をぴんと伸ばし、教壇に立って話しているかのような、妙にはっきりとした口調で話す人だった。
有馬先生の作品は、非常に繊細なガラス細工だった。ガラスの内部に空洞を作り、そのなかに細かな人や木や動物を入れ込んだ作品や、ガラスの球体が絶妙なバランスでガラス細工の枝のようなものからぶら下がっている作品など、半径数メートル以内に近寄るのが怖いような、本当に細やかな作品だった。

 私は作品を見てから先生に会ったので、“なるほど、こういう人が、こういう作品を創るのか”と、最初に会ったときには、まじまじと先生の顔や手を見てしまった。

「小田さんは、もともとガラス工芸に興味があるんだよね」

 画廊のオーナーに言われ、私は頷いたけれど、それが有馬先生のところで働くことになる布石だとは思わなかった。

 私は有馬先生の作品を嫌いではないけれど……正直好きではなかったと思う。それはあまりに繊細で、最高品質の美しさを求めすぎていて……近づきがたかったから。

 そして有馬先生は作品と同じくらい、やっぱり完璧を求めるが故の厳しさと怖さを持った人だった。

 有馬先生の下で働き始めても、先生は私をただの雑用係としか見なかった。簡単な採用面接を受けた際、私は大学で作った自分の作品や作品の写真を持参したけれど、先生は一瞥をくれただけで、“それで、通勤時間は片道どれくらい?”とすぐ現実的な質問を振った。働き始めてからもそれは変わらず、先生は私が創ったり、創りたいと思う作品には何の興味も示さず、先生の作品に対する感想さえ求めることはなかった。

 先生は作品に対するのと同じくらい、展示方法や外部の人とのやりとりにも細部までこだわった。そこは芸術家というより、職人であり、実務家だった。
画廊のオーナーは二代目なだけあって、おおらかな性格で、見方を変えればおおざっぱだった。アーティストの多くも、契約書や細かな実務的な書類や手続きには関心が薄く、それでも滅多にトラブルらしいトラブルは起こらなかった。

 でも、有馬先生は違った。どこかに一点作品を貸し出すだけでも、細かな取り扱い方法や補償を記した契約書を事前に交わさなければ、話は先に進まなかった。結局、有馬先生がスタッフを必要としたのは、そういう細かすぎて、工程が増えすぎている事柄をこなすマンパワーが必要だったということなのだろう。

 意外なことに私はそういった実務をこなす能力には長けているようだった。ギャラリーや美術館からもらった仮の契約書を読み込み、こちらに不利になりそうな部分や取り決めが不足している部分を見つけ、指摘し、より細かい契約書にグレードアップさせてから契約をまとめる、ということは苦にならなかった。有馬先生も私のその部分の“才能”には満足しているようだった。

 ただ、私の美的センスのようなものは、有馬先生はまったく信用していなかった。働き始めてすぐは、有馬先生も個展の準備を私に手伝わせたが、作品を載せる台の置き方、ライトの角度、作品タイトルの掲示の仕方……すべてにおいてダメ出しがあった。

「どうしてそんなふうにしますかね」

 先生はそう言いながら、私が設置した台やタイトルの紙をすべて自分で直していった。ライトは脚立に乗って調整しなくてはならず、年配の先生には大変だったから、そこは私に細かな指示が飛んだ。

 最初は、「あと三ミリ前です」「いえ、そうではないです。角度を斜め上方向に振ってください」丁寧だけれど、きつい口調での指示が。次第に「おい、いい加減にしないか」「お前は猿か。イタチか。脳がないのか」「私の作品を汚すな」「お前は芸術というものから最も遠くにいる人間だ」「お前の表現など誰が見たいと思うか」……そんな心を刺すような強い言葉に変わっていった。

 画廊に勤めていた頃は、仕事が終わった後や休みの日など、美術館に足を運んだり、家で作れる小さな作品を制作し、家族や友人などにプレゼントしたりしていた。それが、有馬先生の下で働くようになってから、次第に億劫に感じられるようになり、私は自分の表現を諦めていった。当時は“諦めていった”というより、ただ体も心も重くなり、休日も必要最低限の洗濯とか掃除とか、それくらいしかしたくなくなっていったという感じだったけれど。

 今思うと、有馬先生の行為は明らかにパワハラで、私は新しい仕事を探すべきだったのだけれど、先生と二人きりの職場では、この状態が“おかしい”ということさえ誰も教えてくれず、自分の心も麻痺し、分からなくなっていた。

 さいわいだったのは……有馬先生のところで働き始めて一年ほど経った頃、有馬先生が心臓発作で急に亡くなったことだった。仕えた人の死を“さいわい”などと表現するのは淋しいことだけれど、振り返って考えると、それはさいわいだとしか思えない。あのままの状態が二年、三年と続いていたら、私は心か体を壊していただろうし、もしかすると私が先生を殺していた可能性もある。

 有馬先生は独身だったから、葬式は先生のお姉さんが執り行った。複数の美術館に作品を収めているような先生だったのに、葬儀は驚くほど小さく、参列者も少なかった。来るのは先生の作品を通して先生と繋がっている人で、先生自身と繋がっている人は、お姉さんの家族だけみたいだった。

 葬儀には、画廊のオーナーも来た。

「大変だったね」とオーナーはまず、先生が亡くなったことについて述べたあと、「どうしたの? 痩せたね」と私に言った。先生の葬儀の場だから、はっきりとした言葉にはならなかったけれど、オーナーはもしかすると私がどんな一年を過ごしたのか、なんとなく感じ取ったのかもしれない。

 白糸先生もその葬儀に来ていた。大学時代有馬先生のゼミにいたのだと言った。画廊のオーナーとも知り合いらしく、少しのあいだ三人で話をした。そこで私は白糸先生の下で働くことが決まった。

 有馬先生が死んだとき、次はもう美術ともガラスとも縁のない仕事がしたいと思っていたのに、白糸先生の下で働くことを決めたのは、白糸先生は私に、どんな作品を創ってきたのかとか、どんな作品に惹かれるのかとか、私の個性やセンスを見ようとしてくれたからだと思う。

 白糸先生は有馬先生とは真逆といっても良かった。私は白糸先生には一度として怒られたことはないし、任された作品制作でミスをしても、先生は基本、“あらあら”としか言わなかった。私は直せるミスは慌てて直し、直せないときは全力で謝ったが、先生は“ま、それはそれでありの気もする”など、すべてを軽やかに流した。

 そんな職場は、びくびく働くことに慣れていた私には、癒しの空間だった。白糸先生のところには、そのときすでに新井さんと他に二人のスタッフもいて、それぞれがマイペースに仕事を進めていて、とても楽だった。

 ただ人間は欲張りなものだ。その環境に慣れてくると、私は少し物足りなさを感じ始めた。何に対してかというと……先生のこだわりのなさに。有馬先生の作品に対する想いの強さは尋常ではなく、怖いほどだったけれど、それこそが作品に対する愛であり、芸術家たるものそうでなくては、みたいな思いも、いつもどこかにあった。

 先生は元々おおらかな性格だというのではなく、色々なものを諦めた結果、今のテイストの作品になり、今の先生のキャラクターになったように思えた。

 それは先生が二十年前に創ったという長崎の島にある教会のステンドグラス作品を見たとき、疑いないものになった。教会の作品だから、イエス・キリストやマリア様、天使の描かれた、普段の先生の作品とはテイストの違う作品ではあったけれど、それだけではない違いを私はまざまざと感じた。私はその教会に入ったとたん、その教会内の空気の静謐さに胸を貫かれたような衝撃を受けた。すべての色が、すべての形が、あるべきところにある、それに一ミリの狂いもないという完璧な世界を私は感じた。

 その完全さは有馬先生の作品と通ずるものではあったけれど、有馬先生の作品のように人を不快にさせる閉じ方はしていなかった。人がその空間に入ってくることまで計算した上での完璧なバランスというものを私は感じた。

「すごいね」

 しばらく言葉をなくしたあと、私は一緒に来ていた遼に話しかけた。隣の遼も同じように言葉をなくし、固まっていた。遼が先生の作品を睨むように強く見つめていた視線を、今も忘れられない。

「先生は自分の表現から逃げているんじゃないか」

 遼がそんなことを口にするようになったのは、それからだった。新井さんたちは遼に「そんなこと言うなよ」とか「まだ若いお前に何が分かるんだよ」「表現は年齢によって変わっていく。それがまた味だ」など返していた。でもそれは、あの長崎の教会の作品を見ていないから言えることなんだと、私は心のなかで思っていた。私は卑怯にもどちらに賛同することも口にはしなかったけれど。

 

 

「すみませんでした」

 若い男の人の声で我に返る。

 私は今、廃校になった小学校にいるのだった。もう遼はここにいないし、有馬先生はこの世にさえいない。

 怖い写真家の先生に気づかれる前にそっと立ち去ろうと教室に背を向けたとき、先生の声が聞こえた。

「お前はさ、核にはいいもの持ってんだから」

 ため息と一緒に吐き出すような声。

「ありがとうございます」

 振り向くと若い男性は先生に頭を下げ、ちょっと嬉しそうな顔をして、写真の額を拭き始めた。

 世界に様々な人がいるように、芸術家と言ったって、様々な表現をする人がいるし、様々な個性の人がいる。

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