小説

その影を1-3

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 そんな、泥臭い仕事を一階でしているあいだ、善場先生は二階で埼玉県にある町から頼まれた図書館の設計をしていた。

 善場先生と直接やりとりするのは基本的に黒川先生なので、私たちスタッフは滅多に善場先生の部屋に足を踏み入れないが、例外はあった。

 それは、善場先生に取材が入るときだ。

 基本的に取材というのは雑誌やWEB記事のためのものだ。一年に一回だけ広告のために事務所発信で記事を作るが、それ以外は向こうから頼まれて、取材を受ける。建築雑誌もあるが、多いのはお洒落な家を紹介する雑誌や、ワンランク上の生活を特集するWEBサイトからの依頼だった。

 一階ではわがままなクライアントと格闘した挙句、クライアントの希望通りのへんてこな家ができあがることもあるが、善場先生を指名して高額な金額を出し、設計を頼んでくれるお客さんは大抵、善場先生の設計をほぼそのまま受け入れてくれるので、そのままお洒落な家になることが多い。

 そんなお洒落な家や、美しさと斬新さのある公共施設の設計事例などは、雑誌に取り上げ甲斐があるのだろう。しかも善場先生は見た目もいい。見た目がいいというのは、格好いいというのとは違うが、いかにも“大御所の建築家”の雰囲気なのだ。六十一歳という年齢以上に威厳があり、でも痩せて、線が細く、白いひげを少しはやし、気難しさと芸術家らしい繊細さの両方を感じさせる。本当の中身はそのイメージ通りではないが……、とりあえず雑誌の取材くらいは、そのイメージで通せていた。

 仕事の場合も、善場先生が打ち合わせの席に現れることはほとんどなく、渉外担当はもっぱら黒川先生だったから、外部の人はほとんどが善場先生を“気難しい芸術家肌の建築家”と認識しているだろう。

 善場先生は几帳面で、部屋も整然としている。ただ、日々の業務のために整えられた空間と、取材で“映える”整い方は違う。だから取材が入る日には、事務所に残っているスタッフ総出で、普段は倉庫にしまい込んでいる模型を引っ張り出してきて配置したり、善場先生の写真を撮った時に背景として映り込みそうな本棚の段を図録など格好よくそろったものに替えたりした。

 その仕事がその日の午後にあった。私も羽賀さんに紹介する土地の候補を三つほど見繕ったあと、手伝いに参加した。

 私が二階に足を踏み入れたときには、すでに同期の桜井が小池くんに指示を出し、大きな模型はほぼ設置し終わっていた。建築業界にいると“女だからと負けてはいけない”意識も勝手に強くなるが、重いものを運ぶのは“男子”に任せたくはある。

「ごめん、遅くなって」

 声を掛けると、午前中は事務所にいなかった桜井も、西川さんから話を聞いていたようで、「大変だったね」とねぎらいの言葉を掛けてくれた。ここが居酒屋なら、ここから二時間くらい愚痴をこぼし続けたいところだったが、近くに善場先生もいる二階の“聖域”なので、ぐっとこらえ、「うん、大変。現在進行形で」とシンプルに答えるだけにする。

 机の後ろの本棚をいじっているときだけ善場先生は応接室でお茶など飲み、寛いでいたが、それ以外の時間は、私たちが部屋の一部でがたがた音を立てて物を動かしていようが、気にせず図面台の前に座り、手を動かしたり、思索にふけっていたりした。

 善場先生は基本、パソコン仕事はしない。スケッチブックにおおまかなコンセプトを表現するラフスケッチを描いたり、図面台に座り、緻密なパース図のようなデザイン画を描いたりする。

 パース図というのは、建物の内観、外観の完成予想を遠近法を使って表現する絵のことだ。まだ建設中の新築マンションのチラシに載っているような、建物の外観や、エントランスの雰囲気を描いた、淡い彩色の絵をイメージすると分かりやすいかもしれない。そういったチラシのパース図は設計図を元に絵を描く専門の人が描いたものだろうけれど、善場先生は実際の設計の前に、パース図くらい細部にこだわったデザイン画を描く。

 その代わり、善場先生は滅多に設計図を自分で描くことはない。今どき設計図はデジタル化しないと使えないのだけれど、善場先生はパソコンの操作を覚えようとしない……というのがその大きな理由だ。なので、善場喜一郎設計事務所では、善場先生がデザインを考え、それを黒川先生が設計図に落とし込むというのが主な役割分担だった。

 善場先生の几帳面さはその絵にも現れていた。今も善場先生は図面台で定規を細かく動かしながら、綺麗に線を引いていた。本来は設計図を描くための〇.一ミリの細いシャープペンで、図書館のエントランス部分のイメージを細かに描いていく。

 規則的に引かれた細い線は美しい。今描いている図書館内部のパース図は、六割ほど完成している感じだろうか。まだまだ空白部分も多いが、描かれている部分はすでに緻密に描かれていて、容易に完成形がイメージできる。

 読書の邪魔にならない程度の柔らかい光が満たす図書館。全体的に丸みを帯びた設計で、二階部分は扇状に広がっている。つまり、広い吹き抜け部分ができているので、図書館に入ったとき、ふわりと心が広がる感じがする。本棚が密集している部分は、本の傷みが進まないようにあまり光が入らないようになっていて、本や自分の世界に没頭したい人は、そのあたりの席に座ればいい。逆に日々の生活でぎゅっと心が縮こまり、今は、広く世界を感じ、深く呼吸したいと思っている人には、図書館に隣接する小さな公園の緑を見ながら、ゆったり読書や勉強ができるスペースを提供する。……やっぱり善場先生の創る建物は、優しさに満ちている。

 そんなことを、善場先生の背後からデザイン画を盗み見て考える。その感想を善場先生にも伝えたいが、集中しているから遠慮する。それは今回に限ったことではない。大抵、善場先生がこの部屋にいるときは自分の世界に入っているから、声を掛けられない。それで入所して五年になり、黒川先生とはプライベートなことも大分話すようになっても、善場先生はいまだ謎な人のままだった。

 図面台の脇にあるテーブルには、重たそうな本が広げられている。海外の文献らしい。橋のデザイン画が右のページ上部に描かれ、あとは何語かも分からない言語がページ全体に散りばめられていた。善場先生はこの橋の文献を、図書館の設計の参考にでもしているのだろうか。それも問いかけてみたいが、やっぱり聞けない。

 善場先生はこの善場喜一郎設計事務所を黒川先生と立ち上げる前は、大学の教授だか准教授だかだったらしい。古今東西の建築物について研究し、論文を書いていたという。ただあまりにマニアックな話だったからか、マイペースすぎた進行だったからか、授業は学生に不評だったらしい……と以前桜井に聞いたことがある。

 私たちスタッフが部屋に入って作業をしていても、“あぁ、お疲れ”くらいの挨拶をしたきり、また自分の世界に戻ってしまう先生を見ていると、さもありなん、と思う。

 でもこれだけマイペースで、自分の世界に深く熱中できるからこそ、教授になれるくらいの論文が書けたり、指名されるほどの価値の設計ができたりするのだろう。

「ほら、藤田も手を動かす、足も動かす」

 ぼんやりしていたら、桜井に注意された。私も自分で思う以上にマイペースな人間だったりするのかもしれない。……ということは、いずれカリスマ設計士にでもなれるか、など一人考えていたら、机の脚に自分の足を引っ掛けて転びそうになった。

 取材の準備が終わると、一階に戻る。取材の立ち合いを頼まれることもあるが、今回その担当は新人の研修の意味も含めて小池くんに任せることになったらしい。

 席に戻ると、黒川先生に羽賀邸のための土地選定のお礼を言われる。

「このB町の土地、良さそうだね」

「そうですよね。近くに小さな庭園があって、もしかしたらそれが借景的に使えるかもしれません」

「そうだとしたら、かなり“お値段以上”だね」

「そう思います」

「土地の形と方角が前の土地に似ているのもいい」

 そう具体的に良さを挙げながら、黒川先生は「藤田さんはこういう引きが強いね」と褒めてくれる。できれば引きの強さより、センスや才能を褒めて欲しいが、それは贅沢すぎだろう。

「今日って急ぎの仕事、なんか抱えていたっけ?」

「いえ……色々抱えてはいますが、急ぎと言われると、ないかな」

「そうか。じゃあ、そのあと直帰していいから、この土地、ちょっと見てきてくれないかな。写真撮って送ってくれると助かる」

「はい、いいですよ」

 その土地は私の家と反対方向にあり、結構遠かったから、ちょっと面倒な気はしたけれど、黒川先生の頼みだとつい快く引き受けてしまう。

 才能はあるけれどコミュニケーション能力はない善場先生と、コミュニケーション能力は高いけれど野心のない黒川先生……とても良いコンビだと思う。なぜ黒川先生に野心がないのかは分からないけれど。

 

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