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その影を1-2

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

「あぁ、なるほど、そうですね。はい、はい、分かります。なるほど」
 
 十五分ほど前から黒川先生は受話器を耳に当て、そんな相槌ばかり繰り返していた。

 嫌な予感がする。黒川先生は基本的に“傾聴”というのが上手い。でもこれだけ相槌以外口にしないのは、しないのではなく、できないのだ。つまり、相手が捲し立てるように話す人だということ。……多分、羽賀さんだ。そして今、羽賀さんが電話を掛けてくるとしたら、デザインの大幅変更に違いない。私は今まさに羽賀邸の最終図面の清書的な作業をしていたが、この作業が無駄になる可能性も高い。

 結論を早めに手に入れようと黒川先生の方を見るが、黒川先生は机の隅の一点を見つめたままで、私の方を向くことはなかった。私は一つ意識的に大きく息を吐き、立ち上がる。気分転換にコーヒーでも淹れようと思う。この事務所で働き始めて五年。もやもやした気分の宥め方は上手くなった。

「では、明日の十四時にお待ちしています」

 コーヒーを半分ほど飲んだあたりでようやく黒川先生の電話が終わる。さすがの黒川先生もふぅっと大きなため息を吐いた。

「またデザインの変更ですか~?」

 あの人にはもううんざりだという気持ちを隠すこともせず、私は黒川先生に質問を投げかける。

「あぁ……」

「今度は何が気に入らないと?」

 黒川先生に怒りたいわけではないが、私の声はどうにも尖ってしまう。今の言葉をキャラクターにしたら、のど飴のCMに出てくる“エヘン虫”みたいになるだろう。

「いや、本当、ごめんね、藤田さん……」

「変更は何回までとか決められないんですか?」

「あぁ……うん、そうだよね。気持ちはわかるけどね、でもお客様にとって家というのは、ほぼ一生に一度の大きな買い物だから」

 その言葉、この五年間で何度聞いただろう。そして黒川先生はスタッフに今まで何度そう言ってきたのだろう。

「本当に申し訳ないです」

「まぁ……黒川先生が悪いわけじゃないですから」

 そう言ったことを一分後には後悔した。

「羽賀さん、建てる場所を見直したいっていうんだよね」

「はぁ~?」

 思わず大きな声が出る。近くにいた数人が何事かと振り返るほどの声だったらしい。

「どうした?」

 姉御的存在である西川さんが椅子を回転させて、首を突っ込んできた。

「デザインの大きな変更を十回くらいさせてから、場所の見直しだっていうんですよ」

 もやもやくらいなら宥められても、大きな怒りは飲みこめなかった。

「今日の午後にはこの図面でGOのサインをもらって、変更できなくなるはずだったんですよ。この土壇場で!」

「うわぁ、分かる、分かる。腹立つよね」

 建てる場所が変わっても、活かせる部分もある。でも、場所が変われば土地の広さも形も、日当たりも、設計に対する制限も変わる。……つまり、今私がパソコン上で綺麗に整えた図面はお蔵入り決定だ。

「本当に悪いね」

「……まぁ、仕方ないですね」

 私は立ち上がり、二杯目のコーヒーを淹れる。苛々するので、砂糖をたくさん入れて甘くする。西川さんも隣に来て、エスプレッソを淹れた。

「先生も、コーヒー飲みますか?」

「あぁ、ごめんね、ありがとう。じゃあ、ブラックで」

 ここで働き始めて五年、ここは二か所目の職場なので、私も三十歳を超えた。それで、少しは周りも見られるようになった……かもしれない。少なくとも今、私以上に仕事が大変になったのが黒川先生だということは理解できた。

「苛々すると甘いものが欲しくなりませんか?」

 そんなことを聞きながら、黒川先生の机の端にコーヒーを置く。

「あー、どうだろう。そうでもないかな」

 黒川先生は穏やかに笑いながらコーヒーを受け取って、飲んだ。黒川先生は四十代半ばくらいなのに、引き締まった体型だし、私のように気分で甘いものなど食べないのだろう。さらに先生は今、苛々もしていないのかもしれない。黒川先生はいつも穏やかで、紳士的だ。本当にすごいと思う。

「新しい場所って、どこなんですか?」

「あぁ、それも探して、候補を見せて欲しいって」

 その言葉に、私の怒りは再沸騰した。

 

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