小説

その影を1-5

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 事務所に着いたのは八時二十分だった。納期が近い仕事がある場合、八時、九時ならまだ残っている人もいる時間だが、今日は事務所に入ってもしんとしている。取材も早めに終わり、善場先生も小池くんも帰ったようだ。

 電気も消えているから、事務所内には外から入ってくる光だけが弱く回っている。ただサーバーやルーターや電話機など様々な機器は完全に消灯しないから、意外とたくさんの場所に青や赤の光が残り、それがそれぞれ周辺の狭い部分を照らしている。

 日中は話し声や電話の音、キーボードを打つ音、書類をめくる音、人の足音など様々な音に満たされている場所が、いくつかの機械の待機音だけになる。その日中とのギャップが私は結構好きだ。パラレルワールドというのか、ちょっとした異世界に紛れ込んだような気持ちを味わえる。

 そんなことを考えながら事務所の右側の電気を点ける。蛍光灯特有の、パラパラリンという微かな音がして、事務所は半分だけ明るくなる。自分のデスクに向かい、引き出しのなかに無事財布を見つける。

 財布を鞄にしまい、そのまま帰ろうとしたけれど、不思議に静かなこの空間をもう少し味わってみたくて、事務所内をふらふら歩き回ってみる。私も残業で遅くなることはあるが、そういうときは大抵黒川先生とか桜井とか誰かが付き合って残ってくれ、あまり一人になることはなかった。それに残業でオフィスにいるときは、精神的にあまり余裕もなく、静かなオフィスを味わう気にはならない。

 事務所の端に去年私が作った専門学校の校舎の模型がひっそり置かれている。普段から視界の隅にたまに入っていたはずだけれど、改めて、あ、まだここに飾ってあったんだと思う。

 せっかくなので近寄って、中を見る。

 この専門学校の仕事は無事提案が通り、今は目下工事中だ。元々あった専門学校の立て替えの仕事だったから、きっと現在の学生たちは仮校舎で勉強しているのだろう。でも来年の頭くらいには、ほぼこの模型通りの校舎ができあがり、何百人という学生がここで生活を始める。

 そう想像してみると、楽しい。

 個人邸と違い、この校舎の模型作成は規模が規模だけに本当に大変だったけれど、その分、思い入れは強い。

 こういう大きな仕事の場合、設計は善場先生がする。それを善場先生と適宜打ち合わせしながら黒川先生がより現実的な形に落とし込み、さらにパソコン上でデジタル化された設計図にする。そして模型が必要なときには、私がメイン担当になり、作る。中学時代手芸部にいて、手先の器用さには自信がある私が、この事務所では“模型担当”なのだが、プラモデル作りが趣味という桜井もなかなか戦力になる。この専門学校の模型は設計が完成してから提出までの時間がタイトだったから、桜井と結構遅くまで残って教室の窓だとか階段だとかを根詰めて作っていた思い出がある。

 たまに美術館で、有名な建築家を特集した展示が開かれることがある。ガウディとか、ル・コルビュジエとか、フランク・ロイドとか。そういうとき、模型のなかには小さな人のフィギュアが何体か置かれていることが多い。そこに人の存在があることで、建物全体のスケール感が出るし、その人になって建物のなかを感じる意識が働くのだろう。私もそういう人型フィギュアを使うこともある。

 ただ、この模型のなかには誰もいない。

 それは納期がタイトだったというのと、説明する相手が人型フィギュアなどなくても設計図や模型をしっかり理解できるプロだったというのが理由だ。

 ただ時間が経った今、こうやって改めて模型を見ると、フィギュアがない分、私の意識はこの世界に自由に入り込み、自由に動き回れる気がする。本当は私とは縁もゆかりもない学校なのに、四年間この校舎に通っていたという仮想のキャンパスライフをイメージできる。イメージできるだけでなく、その世界を生きられる気がする。

 想像のなかの私は、仲の良い友達二、三人と外階段を降りながら、次の授業の校舎に向かい、前から三番目の席に座ってノートを取り、たまに窓の外に意識を飛ばし、良く晴れた空を見つめ、昼になるとカフェテリアでまた友達と会って、課題に出された建物の設計図を見せ合いながら、アイスコーヒーを飲む。

 そこにはもちろん私だけでなく、この世界で一日一日を送るたくさんの人がいる。

 まだ現実には存在していない校舎なのに、私の意識のなかでは、完全に存在している。もしかしたら、桜井や黒川先生や善場先生の心のなかにも、すでにしっかりと存在しているのかもしれない。……だからこそ、この建物は、近いうちに現実の形になり、本当にこの世界に現れるのだ。

 

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