※毎週火・金更新
※この作品は「プロローグ」から始まっています。
結局、私と桜井で黒川先生を訪ねることになった。
黒川先生は今も善場先生の家にいるらしい。そこまでは桜井が電話で確認してくれていた。
善場先生の家は高層マンションの中層部にあった。なぜ著名な建築家が自分のデザインした家に住まず、マンションに住んでいるのか、以前は不思議に思っていたけれど、今は少しだけ気持ちが分かった。
住所を知っていても、実際に訪ねるのは初めてだった。桜井も善場先生の葬式のあと、黒川先生を探してここまで来ていたが、黒川先生とはインターホンで話しただけで、“玄関にも上がらせてもらえなかった”らしい。
そのときに比べれば、黒川先生も大分落ち着いてきたのかもしれない。今回は自ら玄関の扉を開け、私たちをリビングまで通してくれた。玄関にはふわふわしたスリッパが二足準備されていた。
リビングまでの廊下にはいくつか部屋があるようだったけれど、扉が閉まっていたから、どのような用途の部屋があるのかは分からなかった。
リビングには、さすが善場先生の家だと思える、少し尖ったデザインの椅子やローテーブルが置かれていた。普通のソファーの方が寛げるのではないかと思うが、それは庶民の感覚なのだろう。
「座って」
以前の朗らかさはなかったけれど、黒川先生は私たちに椅子を勧め、お茶を準備してくれた。そういう柔らかな気遣いは、黒川先生らしかった。ただやはり、黒川先生は随分やつれた感じがした。今までが年齢よりずいぶん若く見えていただけなのかもしれないが、四十代半ばというのは、こんな感じなのかと見せられた感じだった。
桜井が座ったのはホルスタイン柄のこじゃれたチェアだった。椅子ではなく、チェアと言ってしまいたくなるような、不思議なフォルムの家具。善場先生が亡くなる前だったら、「これ、いくらだろう」「私たちの給料一年分!」とか二人ではしゃいだのではないかと思う。でも今は、まるで美術館の一室みたいなリビングが、淋しかった。私たちはもうずいぶんあの時間から離れてしまったのだ。
黒川先生が三人分の紅茶を、ガラスのローテーブルに置く。カップもソーサーも透明なガラスで、すべてが透き通って、私たちの視線を留めない。
「ホールの仕事の話だよね」
黒川先生は自身も座るや、そう言った。いつもの黒川先生なら、“事務所はどう?”とか“みんな変わりない?”とか“迷惑かけて、ごめんね”とか、そんな言葉があるはずなのに。
「はい」
桜井がプリントアウトして持ってきたデザイン三案をテーブルの上に置く。テーブルは小さく、三人分の紅茶もあり、デザインは広げられず、重ねられたまま置かれる。
「よく見つけたね」
黒川先生はそう言って、冷たく息を吐く。
「すみません。……黒川先生のパソコンの中身を探りました」
「そう……なんだろうね」
そう言って、黒川先生は弱く何度か頷く。
なんだか別世界に迷い込んだようだ。黒川先生に化けた異星人を見ているような気分でもある。
でも、本当の黒川先生は、こっちなのかもしれない。
あの黒川先生は、本当はとてもとても無理して作っていたものなのかもしれない。
急にそんなふうに思えて、泣きそうになった。
善場先生が亡くなってから、何が本当で、何が信じていいものなのか、分からなくなっている。
「この三案を市の担当の方に送っていいですか?」
桜井が訊くと、黒川先生は無言で頷く。
「それから、来週の火曜日にその担当の方を含め、市役所でミーティングがあります。そこには来ていただきたいのですが」
「それは……君たちに頼めないのか」
黒川先生の言葉は、質問のようでもあり、諦めの嘆息のようでもあった。
「はい。今後のことについて、代表と話したいと」
「……代表……」
黒川先生はそこで弱く笑う。それはとても悲しい笑いだった。
「多分、ホールの完成まで、善場先生がいなくても、事務所としてきちんと責任を負える体制なのか、確かめたいと考えているのだと思います」
「そうだな。これだけ大きな、お金もかなり動く仕事だからね。相手も慎重になるだろうね」
相変わらず口調に覇気はないが、黒川先生は正気は保っている。そう分かる発言だった。
「僕たちは……やっぱりこの仕事を最後まで責任を持ってやり遂げたいと思っています。でも、最後まで事務所として責任を持てないなら、それはただのセンチメンタルな感情であって、人に迷惑しか掛けません。だからやっぱり今、僕たちも黒川先生の意志はしっかり確認したいのです」
「そうだな」
そう言って、黒川先生は深く息を吐いた。決して力のこもった息ではなかったが、それでも、黒川先生はその呼吸で自分を目覚めさせたのだと感じた。
「それは、善場先生が受けた、善場先生の名前で完成させられる最後の仕事だ。……だから、やるよ。責任を持って、最後まで」
「ありがとうございます」
私たちはそろって頭を下げた。そのあと黒川先生は言った。
「この案はもう少しブラッシュアップして、資料も作って、火曜日に持っていく。当日は、市役所の受付前で」
今まで通りの、頭の切れる黒川先生らしい対応だった。でもそこには優しさや柔らかさや温かさはなかった。
私たちはそのあと残った紅茶を飲み、西川さんや佐山さんや小池くんのこと、羽賀さんをはじめとしたお客さんのこと、黒川先生がいないあいだ、みんな懸命に担当する仕事を進めていること、などを話した。でも黒川先生の反応は薄かった。私たちは途中でいたたまれない気持ちになり、早々に家を辞した。
「ホールの仕事、やると言ってくれて良かったね」
家を出て、黒川先生が扉の向こうに見えなくなると、桜井は言った。
「うん、良かった」
私も言った。本当は心にひっかかることだらけだった。でも、だからこそ、私たちは喜べることを懸命に探した。
火曜日の打ち合わせは私たちの心配をよそに順調に進んだ。
黒川先生は相変わらず、私たちが知っている黒川先生ではなかったけれど、元を知らない市役所の人には“一流建築家らしいクールで知的な人”と映ったのかもしれない。
善場先生が亡くなり、事務所はしばらく縮小の方向に進むことになると思うが、今手掛けている仕事は完了まで責任を持つし、善場先生が亡くなっても、善場喜一郎設計事務所という名称のまま、自分が代表になり継続させていく、というようなことを黒川先生は担当者に力説した。
黒川先生がブラッシュアップして提出したデザインは結局二案になったが、それもとても好評だった。
黒川先生は二つのデザインの意図について、過不足なく端的に語り、市役所側の三名も大きく頷き、年配の一人は「いいですね」と目じりを下げた。
ただやはり黒川先生は最後まで、「これは善場が亡くなる前に残したデザインです」と、善場先生の存在を強調し続けた。相手も、善場先生の遺作となった作品だと信じ、「これが最後の仕事になってしまうなんて、まだ若かったのに残念です」と言いながらも、「最後の作品が私たちの市のものになるとは感慨深いです」とありがたがった。
その打ち合わせのあとは、最終的に採用されたデザインを元に設計図を完成させ、模型も作って次の打ち合わせに臨むという流れだった。
黒川先生は相変わらず事務所に来なかったが、家で設計図は作成してくれたし、以前よりはきちんと事務所に連絡を入れてくれるようになった。
私は黒川先生が描いた設計図を元に、模型を作り始めていた。デザイン画には外観の雰囲気や内部の特長的な部分しか描かれていなかったが、設計図になるともっと現実的な細部が加わってくる。たとえば階段とか、トイレとか、ロッカーとか、柱とか、窓はどのように開閉できる仕組みなのかとか。
設計図も完成図ではなく、それを元に依頼主や外部の業者と打ち合わせを重ね、より現実的な形に修正されていくものだが、今この、本当は何もない白紙の時点で、これだけの“いかにも現実にありそう”な建物を描き出せる黒川先生は本当にすごいと思う。
そして私は、その“いかにもありそう”な建物の存在感をより強めるために、模型を作る。
黒川先生の作成した設計図をプリントアウトして、スチレンボードの上に置き、まずは一階の土台の形を切り出す。そして二階も。次に階段や吹き抜け部分を二階の床から切り抜き、一階と二階をつなぐ壁や、一階にあるカフェとエントランスを隔てる壁など壁を一つずつ切り取り、そこからさらに窓や扉を切り出していく。
お客さんの要望で個人邸でも模型を作ることはあるが、個人邸とホールや学校では大きさがまるで違う。最初はA0のスチレンボードから床や壁など大きな部材を切り出していく。さすがにA0サイズになるとパソコンが置かれている個人の机では作業が厳しいので、打ち合わせ用スペースの大きなテーブルを使わせてもらう。
「相変わらず器用だね」
模型作りは苦手と公言する西川さんが言いながら通り過ぎ、
「ホールともなると大きさが違いますね。わくわくします」
そう言いながら小池くんがコピーした資料を手に速足で通り過ぎていく。
黒川先生の姿はないけれど、少しずつ善場喜一郎設計事務所の一階は、以前のにぎやかさと明るさを取り戻しつつあった。
大きな模型であっても、土台や壁は十分の一ミリ違うだけで歪んだり、変なところがつきだしたり、凹んだりしてしまう。細かなテーブルや椅子を作るのも神経を使うけれど、やはり壁を作るのが一番緊張するかもしれない。
三ミリの厚さのスチレンボードに細いシャープペンで線を描き、その線にびったり沿うようにカッターを動かす。はさみと違い、すぱっとまっすぐ物体を切るカッターの潔さは結構好きだ。
窓の部分が切り取られた壁を一階の土台の周辺に立てていく。それだけで平面だった世界が立体になる。
「影……だね」
通りかかった桜井が足を止めて言う。
「いや、真っ白な模型とかスチレンボードを見ていると、やっぱり影が気になってしまうものだなと思って」
「あぁ……」
黒川先生が専門学校の模型を見ながら、“影ばかり見てしまう”と話したことを言っているのだと分かる。
「黒川先生……このまま少しずつ立ち直ってくれるかな」
「分からないけど、そう信じよう。時間が一番の薬という言葉もあるし」
「そうだね」
そして桜井も自分の仕事の続きをするために、足早に立ち去る。
私は真っ白な壁と床と天井と、残っているスチレンボードを見つめる。それは、これから階段や椅子や舞台や様々なものに姿を変えるが、今はただの真っ白な板だ。自分自身もスモールライトで小さくなって、この真っ白な世界に入りこんでしまったような感覚になる。しばらく人に声を掛けられないと、私は模型を作りながら、模型の一部になっていく。
建物の大枠を作り終えると、細かい椅子などの制作になる。さすがにホールの数百人キャパの客席を細かく再現するのは気が遠くなる作業なので省くが、エントランスのベンチやカフェのテーブルや椅子、ケーキなどが並ぶ予定のショーケースやレジの台などは作っていこうと思う。
一つ試しに長椅子を作り、エントランスに置く。実際の椅子はもっと装飾がある色のついたものになるかもしれないが、模型のなかの長椅子はやはり真っ白で、そしてとてもシンプルだ。ただ座る場所と脚だけがある。
私は長椅子を作りながら、空想のなか、その長椅子に座る。そこからは数か月前に視察に行ったあの公園の緑が見えるはずだ。大きなクスノキが風で枝を揺らし、季節によっては広場の芝生の一部は雑草で丈が伸び、その草も風に揺らいでいるかもしれない。春には桜などの淡い色が、秋には紅葉などシックな色が世界を満たすだろう。
天気が良い日は、その長椅子のすぐ前まで日の光が差し込むかもしれない。長椅子の前の壁は大きなガラスになっている。屋根には装飾的な庇がつけられているから、どの季節も眩しさは感じない。でも、その装飾的な庇が、まるで木漏れ日のような美しい幾何学模様の影を床に作り出しているかもしれない。
私はそこで誰かと待ち合わせをしている。二階のホールで行われる演奏会を楽しみに、出演する友達に渡すための花束を膝の上に載せて。
そんなふうに、何年後かに仕上がるはずの建物と、そこに生まれるであろうたくさんの人のたくさんの物語を想像しながら手を動かしていると、時間はあっという間に過ぎる。
結局私は丸二日かけて、その模型を完成させた。
「こうやって模型を見ると、もうこのホールはどこかにちゃんと存在しているみたいに思えますね」
仕上がった模型を見て、小池くんが言った。
「うん、そうだね。そして、それはただのちょっとした時間差だよ」
私は敢えてそう口にしてみた。
善場先生が生きていた頃は、善場先生と黒川先生が作った設計図は数年後、実際の建物になると疑ったことなどなかった。
でも今回、私は初めて、心の奥に不安を抱いていた。それははっきりとしたものではなくて、とても曖昧で、時折ふっと胸の辺りを通り過ぎていく、冷たい風のような感じだった。
その風はそっと私に囁いた。
“本当にこの建物は仕上がるのかな?”と。
きっとコンペで仕事を受注しなくてはいけないような設計事務所では、そういう不安は日常なのだと思う。でも私はこの事務所で、今回初めてそんな不安を覚えた。そして、不安に思うことを、なんだかとても怖いと思った。
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