※毎週火・金更新
※この作品は「プロローグ」から始まっています。
黒川先生はしばらくクルーザーを走らせたあと、安全な川べり近くでエンジンを切り、私たちの方向を向いて座り直す。そして改めてみんなで乾杯する。紙コップにソフトドリンクを注いだ飲み物でだけれど、それはとても贅沢な乾杯だ。
「みんな、いつもお疲れさま」
黒川先生が音頭を取る。
「先生も、本当にいつもお疲れさまです」と、みんなも黒川先生をねぎらう。その割に、休みの日にまでクルーザーを出せとか、運転しろとか頼んでいるわけだけれど。
少しだけ会話に加わると、黒川先生はまた運転に戻る。私たちは黒川先生の背中を見つめる形に戻る。エンジンを全開にすると、モーター音で会話は聞こえづらくなる。その隙にか、クルーザーに初めて乗った小池くんが黒川先生に聞こえないように言った。
「黒川先生、彼女とかいるんですか? クルーザーに助手席がありますけど、誰かと乗ったりするんですかね」
小池くんの右隣にいたのは私で、左隣にいたのは桜井だったが、二人とも答えに詰まる。桜井のさらに隣にいる西川さんには質問が聞こえていなかったのだろうか、真面目な顔をして川沿いの街並みを見つめている。
「それは聖域だから、触れちゃダメなところ」
そう言ったのは、私の右隣に座っていた佐山さんだった。佐山さんは、普段あまり余計なことを話さない、私たちより十年ほど先輩の男性だ。こういう飲み会には五回に一回くらいしか参加しない“レアキャラ”でもある。
「あ……そうなんですね」
小池くんは、どうして“聖域”なのか、気になってはいるようだったが、そこで賢明にも会話をやめた。ただ、そのあと不自然な間ができ、私は場を取り持とうと必死に話題を考える……が、先に口を開いたのは桜井だった。
「そういえば大学時代、橋のマニアがいたな」
船はちょうど総武線の通る橋に差し掛かろうとしているところだった。
「橋マニア? 建築学科あるあるっぽい」
西川さんが笑う。橋の手前だからか船のスピードが落ち、会話もしやすくなっていた。
「トラス橋派とアーチ橋派が論争する感じ?」
トラス橋というのは、直方体より三角錐など三角形の構造の方が圧力に強いという原理を使った橋だ。橋をよく見たとき、三角形をたくさん見つけたら、それはトラス橋だ。トラス構造自体は橋以外にも強度を必要とする色々なところに使われている。段ボールの内部や、東京タワーもトラス構造だ。ただ、三角形を多用する分、直線的で固い印象はある。そこで、丸みを帯びたデザインが好きな人は、アーチ橋派になる。
「論争していたかは分からないけど、そこの好みは確かに分かれる」
桜井が言うと、
「斜張橋も外せませんよ」
小池くんが意外とそこで熱くなる。
「一本力強く天に伸びた柱と、そこから出る、いかにも橋を支えています、という感じのまっすぐな複数のケーブル! 建築美ですよね」
「あぁ、分かる。でも、意外な刺客、吊り橋っていうのもあるよ」
桜井も話を盛り上げ、思わず私も話に加わる。
「絶景のなかには、やっぱり吊り橋だよね。私は大鳴門橋のシルエットが好き。あれは、トラスであり、吊り橋」
私たちは決してマニアでもオタクでもない……と思っているが、きっと違う業界の人からみたら、それなりに偏愛趣味のある変人に見えるだろう。
「黒川先生はどうですか?」
「え、僕? 僕は、斜張とトラスが好きだね」
「意外と直線派なんですね」
そこから私たちはしばらく、具体的な橋の名前を挙げ、その橋を見に行きたいとか、今度はもっとこのクルーザーで遠出したいとか、また好き勝手なことを言い始めた。
そんな専門的だったり、くだらなかったりする話を次々繰り広げながら、頬を撫でる風と少しだけ潮の香りを感じる川の風景を味わううち、太陽はどんどん傾き、建物の陰に隠れた。すると急に気温が下がり、周りは暗くなっていく。黒川先生は船をUターンさせた。
太陽を隠した建物の辺りがぼんやりと赤く染まり、それ以外の空は紺色になっていく。日没前後は空の色の変化が激しく、とてもドラマチックだ。
「いい色ですね」
小池くんが言う。「そうだね」と誰かが答え、そのままみんなで空や、ドラマチックな色合いの空をバックにした川べりの街並みを味わう。一度黒川先生が船を止める。
「みんなで写真を撮ろうか」
黒川先生がスマホで写真を撮ってくれようとするが、それでは黒川先生が入らない。
「みんなで入りましょう」
私が言い、みんなで運転席の周りに集まる。腕を精いっぱい伸ばし、どうにか全員が収まる構図を決めて、シャッターを切る。全員を入れるのに必死になりすぎ、写った写真を見ると、川も空もほとんど入っていないが、それはそれで良いだろう。
「忙しい日とかさ、綺麗な夕陽を見て、“あ、今日はいい天気だったんだな”とか思うことが多いな」
黒川先生がぼそっと言った。なんとなく気持ちは分かったけれど、それは少し淋しいようにも思う。
「黒川先生は忙しすぎですよ。もうちょっと休んでください」
「そのためには、俺たちがまずは一級に受かって、黒川先生の仕事をもっとサポートできるようになるべきだな」
「それを言われると、ぐうの音も出ない」
私も桜井も二級建築士としてこの事務所に入り、一級受験のための実務経験は十分積んでいるが、なかなか試験に受からないのだった。
「みなさんには十分サポートしてもらっていますから、大丈夫ですよ」
黒川先生が船を運転しながら、そんな優しいことを言ってくれる。
「二人とも本当は分かっていると思いますが、一級建築士など事務所に一人いれば十分です」
一級建築士と二級建築士の違いは、設計できる建物の規模だ。そして善場喜一郎設計事務所や多くのアトリエ系設計事務所の場合、主な仕事は個人邸なので、二級建築士の資格があれば、問題なく設計や工事管理ができる。
お客さんによっては、やはり一級建築士という“ブランド”的なものを求める人も多いが、それは初回の打ち合わせに資格を持った黒川先生が同席すればどうにかなる。
さらに言えば、設計事務所と言っても、設計の仕事は業務の十分の一位だ。他はお客さんの要望を聞いたり、それを元に業者や土地を探したり、その調整をしたり、建築の許可を役所にもらいに行ったり……と、資格より話術の方が必要な仕事が多い。
「もちろん、二人が一級建築士になりたいと思う気持ちは分かりますし、応援もしていますが……事務所としてプレッシャーをかける気はないですよ」
「はい……ありがとうございます」
黒川先生は運転席に戻り、船を動かし始める。私も席に戻り、刻一刻と変わっていく空と川の色をぼんやり見つめる。
確かに、一級建築士資格を取ると、今度は独立が視野に入ってくる。それは事務所にとってあまり喜ばしいことではないだろうし、私たち自身にとっても、本当に好ましいことなのかは分からない。
地方出身で大学卒業後すぐに結婚した友人が言っていた。“田舎だと、三十過ぎて独身だと、結婚はいつ? とプレッシャーを掛けられる。だから私は、早く結婚していいねと言われるけれど、結婚すると、今度は、子どもはいつ? というプレッシャーが掛る。一人産むと、二人目は? と。私たちは結局、いつだって今ここに立ち止まることを許されないんだよ“
ジャンルは違うけれど、結局、似たようなことなのだろう。
ただ、立ち止まることを許されないように感じたって、立ち止まることを選ぶのは、個人の自由だ。
実際、佐山さんは私たちより長くこの事務所にいるけれど、CADのオペレーターとして入所し、そこからパソコン関係の勉強を深めていき、事務所のサイト制作の窓口になったり、事務所のパソコンや電化製品の買い替え時期の把握や、メンテナンスの手配など一手に引き受けているが、建築士の勉強は早々に諦めたと言っていた。
黒川先生が、善場先生のような一種カリスマ的な建築士を目指さないのも、自分で“ここ”に立ち止まることを決めたということなのかもしれない。
そんなことを考えていたら、急に西川さんの大きな声がした。
「あ。こっち側に月、出てるじゃないですか」
私たちが夕焼け空を味わっているうちに、反対側の空に月が上がってきていた。日が落ちるのと反対から月は昇る。当たり前だけれど、忘れていたように思う。私たちは慌てて逆方向の空を見る。同じ空でも、西と東の空では色合いが異なり、東の空の方が青が強い。
出てきたばかりの月は、まだ残る空の明るさに覆われ、その存在をぼやけさせているが、時間が経ち、空が暗くなるにつれ、どんどん輝きを増す。太陽とはまったく違う、凛と透き通ったような光を浴びると、自分の心まで静かになるように感じる。
「月とか空を眺める時間って、贅沢だよね」
西川さんが言う。
「贅沢、ですか?」
「時間的にも、精神的にも余裕がないと、空とか見れなくない?」
「あぁ、分かります」
「確かに、僕たちも普段は全然そんな余裕ないですもんね」
桜井が言うと、みんな苦笑に近い笑いを漏らす。
「太陽がなくなったら、月の光ってなくなってしまうんですものね。不思議ですよね」
センチメンタルなことを言ってみたつもりだったが、
「太陽がなくなったら、そもそも僕たちも生きてないからね」
桜井に現実的な返しをされる。
でもそう考えてみたら、時間的、精神的余裕があるという以上に、ただこの地球上で生きているということが贅沢なことなのではないかと思えてくる。
「もうちょっとで出発地に戻るけど、どうする? もう上がる? それともこのままもう少し上流まで行く?」
黒川先生の問いに、西川さんが、
「お腹空いたので、もう降ります」
と、これまた非常に現実的な返答をした。
そのあと、“近場で一番評価が高かった店”として西川さんが目星をつけていた、ちょっとお洒落な居酒屋で飲み、打ち上げは解散になった。
料理もお酒も美味しかったし、みんなとたくさん笑い合えたし、黒川先生がそこの支払いもしてくれたし、私たちはとても満たされた気持ちで家に帰った。
だから、そのあと、急にそんな悲劇的なできごとが起こるなど、誰も予想もしていなかった。
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