※毎週火・金更新
※この作品は「プロローグ」から始まっています。
侵入すると言っても、相手はパソコンなので、パスワードを推測してロック解除するか、黒川先生にパスワードを教えてもらうか、の二択だ。
私たちスタッフのパスワードは、急な病気などに備え共有されていたが、黒川先生のパソコンのパスワードは、共有されていなかった。
最近はクラウドサービスも充実し、先生たちとスタッフが共有すべきものは、クラウド上で共有されているから、一昔前のように「至急資料がいるので、先生のパソコンを開けたいんですけど」など電話を掛けて、パスワードを聞くこともなかった。つまり、誰の記憶のなかにも黒川先生のパスワード情報はないということだ。
私たちはお菓子を食べて束の間の休憩を取ると、場所をミーティングスペースから黒川先生のデスク前に変えて、また話し合いを始めた。ただもうこの時点で定時の六時を過ぎ、パートの人はすでに事務所を出ていた。佐山さんはまだ残っていたが、今日中にこなすべき仕事のラストスパートに入っているような雰囲気だった。
「とりあえず、思いつくパスワードを徹底的に調べる」
西川さんがそう言って、黒川先生のパソコンを起動させ、パスワードを打ち込む最初の画面を表示させる。黒川先生のロック画面の画像は以前この事務所で設計した福島にある美術館の写真だった。黒川先生は基本的に私たちの始業時刻に間に合うように出勤し、大抵私たちより遅くまで事務所にいた。だから起動後の画面は何度も見たことがあったが、ロック画面は初めて見た気がする。
「この美術館の外観も、シックでお洒落ですよね」
思わずロック画面の画像に見惚れて言うと、「今はパスワード」と突っ込まれた。みんな大分余裕をなくしている。
「“善場喜一郎設計事務所”とか、“善場喜一郎”とかどうですか?」
「それをそのままローマ字にして?」
訊きながらも、西川さんは既にパスワード欄に入れて確認している。
「ダメ。違う。……他には?」
「黒川先生のクルーザー、なんとか丸とか名前付いてなかったですっけ?」
「あぁ、なんだっけ。つばき丸、だっけ」
なんでつばきなんだろう、と独り言を言いながら、またパスワード入力するが、弾かれる。
「ペットを飼っているとか、飼っていたとか、そういう話は?」
「聞いたことないな」
「むかし、なまずを飼っていたとか聞いたことありますけど……名前、あったんですかね」
「……とりあえず、ペットは却下ね」
「他に、黒川先生、何か趣味とかありましたっけ?」
「クルーザーで時々釣りをするとか言っていたけど」
「そこで釣り上げた大物の魚の名前とか」
「大物の魚って……? マグロとか、鮭とか?」
言いながらまた、西川さんはキーボードを打つ。でも、あのクルーザーでマグロや鮭を釣りにはいかないだろう。案の定、またパスワードは弾かれる。
「子供がいたら、子供の名前とか怪しいですけど、いないですし……親や兄弟の名前を代わりに入れるとは考えづらいし……」
「意外と単純に誕生日とか?」
「黒川先生の生年月日って分かる?」
会話には加わらず、自分の仕事をしているだけのように見えた佐山さんが、ぱぱっと資料を見つけて、教えてくれる。でも、その数字も違う。
「あ!」
急に桜井が声を出す。
「この事務所の開設日」
「なるほど、誕生日より、ずっとあり得そう」
そこでまた佐山さんが設立年月日を教えてくれるが、これもまた違った。
「やっぱり、そんな単純なパスワードじゃないんじゃないですか?」
「確かに、今はアルファベットだけじゃダメで、数字も入れろとか、記号も入れろとか、セキュリティが厳しい時代だからね」
「そうですね」
みんなそこで納得しかけたが、小池くんだけは言った。
「でもこれは、オンライン上で要求されるものでなく、あくまでこのパソコン単体のピンですから、単純なアルファベットや数字のままという可能性もありますよ。実際、僕の家のパソコンのパスワードは数字だけですし」
「そっか」
それからもしばらく、今まで設計を担当した建物の名前とか、事務所の住所の一部とか、電話番号の一部とか、思いつく英数字を片っ端から打ち込んでいったが、どれも違った。
「宿題」
三十分以上格闘し、疲労困憊状態の西川さんが、投げ捨てるように言った。
「宿題、ですか?」
「そう。明日までに一人十個ずつ、パスワードかもしれない英数字を考えてくること。それから、一人一つ、黒川先生にパスワードを話させる方法を考えること」
「おぉ、結構ハードな宿題」
桜井が言って、苦笑する。
「ということで、今日は解散! お疲れ様でした」
西川さんはそう言うと、さっさと帰り支度を始めた。こういうところ、西川さんは潔いというか、切り替えが早い。そしてみんなやはり疲れがたまっているのだろう、桜井も小池くんもさっさと自分の机に向かい、荷物をまとめ始める。佐山さんも仕事が一段落したのか、パソコンの電源を落としている。もしかすると佐山さんは、私たちのことをそっと見守ってくれていたのかもしれない。
「藤田も帰ろう」
リュックを肩に掛けた桜井が出口で立ち止まって声を掛けてくれる。すでに三人は事務所を出てしまった。
「私はちょっと、やることが残っているから。……すぐ帰るけど、ちょっとだけ残るね」
「え? 大丈夫? あの……羽賀さんだっけ、ちょっと面倒くさいっていうお客さんの件?」
「あ……いや、うん、ちょっと」
「そっか、忙しいのに、善場先生の部屋の捜索とか頼んじゃって、悪かったな」
「いや、そんな忙しいってほどじゃないんだけど」
自分のパソコンを立ち上げたが、桜井に帰る気配はない。私は正直に言う。
「ごめん、仕事が残っているとか、嘘。……ただなんか、帰りがたくて。……もしかしたらここがもうなくなっちゃうのかもしれないと思うと……淋しくなっちゃって」
私は背もたれに体を預け、大きく息を吸う。
「そっか……。そうだよな。今はみんな、目の前の仕事をこなすことで精一杯で、それ以上先のことは見ていないけど……いや、みんな、ただ見ないようにしているのかな」
そう言って、桜井は私の隣の小池くんの席に座る。
「仕事だからさ、大変なこととか、理不尽なこととか、しんどいこととか、色々あるけど……でも、確かに俺も、ここ、好きだな」
私と小池くんの席は、入り口から見て右側の壁を背に並んでいるから、そこに座ると事務所全体がよく見渡せる。入り口と逆方向にある窓の前の一角に黒川先生スペースがあり、私たちの席と逆側の壁の近くに桜井やパートの人たちの席があり、事務所中央、入り口近くに佐山さんや事務の人の席がある。
そして、黒川先生のスペースの右側と左側に、八人掛けと四人掛けのちょっとした打ち合わせスペースがある。
普段はパソコンの画面に神経を集中させているけれど、コーヒーを飲みながら一息入れるときなど、私は見るともなく、事務所全体や、黒川先生スペースの後ろに広がる窓から見える外の四季の移ろいに目を向けた。
「複数の人が電話でお客さんと話していたり、打ち合わせスペースでお客さんとやりとりしたりする活気ある昼間の事務所も好きだけど、みんなが帰ってから、こうやって静かになった事務所も好きだな」
「あぁ、何か分かる。……急ぎの仕事のために一人で残っているときは、“早く終わらせて、帰って、肉大盛りの弁当とビールに早くありつきたい”としか思わないけどな」
「確かに」
そう言って二人で笑ったあとは、二人で事務所の静寂を味わう。“静けさや 岩にしみいる 蝉の声”という芭蕉の句は、蝉の声がより一層静寂を引き立てているのだと、授業で習った。今は、機械の電子音や外を通る車の音が、逆に私たちの静けさを際立たせる。そう言えば少し前、事務所に一人になったと思ったら、黒川先生が現れて、二人で話したなと思い出す。
私は立ち上がり、あの時見ていた専門学校の模型の前に立つ。桜井も“どうした?”という顔をして、ついてくる。そんな桜井に、私は問う。
「桜井は普段、光を見ている? 影を見ている? それとも、影を作りだす物体を見ている?」
「え?」
当然ながら、桜井は私の唐突な問いに面食らう。私は質問をただ繰り返す。
「桜井は普段、光を見ている? 影を見ている? それとも、影を作りだす物体を見ている?」
「みんな見ているかな」
少しの間のあと、桜井が言う。
「みんな? そっか、すごいね」
確かに桜井にはそういうところがある。佐山さんのようなクールさはないが、でもどこか奥の方に“冷静な桜井”がいつもいるような感じがする。
「設計士としては、理想だね」
「何それ、褒めてくれているの?」
「うん、一応」
「一応か。……それで、何だったの? 今の問い? 性格診断?」
「ま、確かに性格も出そうな質問だけど……前に、黒川先生と事務所で二人になったとき、訊かれたんだ」
「へぇ……。で?」
「うん。私は普通に“影を作りだす物体”と答えたんだけど、黒川先生は、“僕は、影ばかり見てしまう”って。この模型を見ながら、そんなことを急に」
「影……ばかり」
桜井は何か考える顔をして、しばらく黙りこむ。
「確かに、すごい、性格診断っぽいね」
“深く考えこんでいた割に、そんな感想だけかい”と突っ込もうとしたとき、桜井が言った。
「黒川先生って、普段は明るくて、性格的には黒川先生が光で、善場先生が影……いや、この言い方はなんかちょっと違うな。そう……なんか、二人って、太陽と月みたいだよね」
「太陽と月……?」
「うん、性格的には黒川先生が太陽で、善場先生が月みたいなのに、仕事では善場先生が太陽で、黒川先生は月の役割をしているな、って」
「なるほどね……」
結局、月は太陽の光なしには輝けず、影は光なしには存在できない。
「あ!」
急に桜井が太陽と月など、ロマンチックなワードを口にするから違和感を覚えたが、なぜここで太陽と月が出てきたのか、思い当たることがあった。
「あ! あ!」
桜井も分かったようだ。
「太陽と月!」
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