「その影を」

その影を エピローグ

 コーヒーがほとんどなくなりかけた頃、桜井が息せき切ってカフェに現れた。

 格子状の庇が幾何学模様の影を落とす窓の外を見ていた視線を上げる。

「遅い」

「ごめん。言い訳だけど……昨日、帰りが遅くなって、今日起きられなかった」

「お客さんとの打ち合わせなら、遅れないでしょう?」

「面目ない」

 そう、桜井は職場では結構しっかりした人に見えるのに、その反動なのかプライベートはやや抜けている。……そう知ったのも、私たちが善場喜一郎設計事務所を辞めた後だ。

「まだでも、時間あるよね。コーヒー注文してくる。おかわり、いる? お詫びにおごる」

「だったら、季節限定の……なんだっけ、マロンっぽいラテのトールサイズね」

 普通のコーヒーの倍くらいの値段のラテを意地悪で言ってみる。桜井は「分かった」と言って、レジに向かう。

 あれから三年のあいだに桜井も一級建築士の試験に合格した。私より一年早かった。

 レジが混んでいるのか、桜井はなかなか戻ってこない。私はスマホで西川さんからもらったメッセージを確認する。

“A大学で黒川先生の公開講座が開催されるよ。わざとかな、ちょうど善場先生の命日に。良かったら、現地で会おう”

 そのあとにURLがついていて、クリックすると、A大学のサイトに飛ぶ。そこには三年前よりちょっと痩せて、髪に白いものがかなり混ざった黒川先生の写真が載っている。

“建築学科公開講座 講師:黒川祐樹客員教授 テーマ:着想とデザインと設計の関係性”

 三年前、大学院で学びなおすと言っていた黒川先生は、どういう経緯でか、一年後には客員教授になっていた。

 以前の事務所メンバーと集まったとき、“そんなことってあるの?”と訊いてみたが、“大学は単位を取りに行っていただけだし、大学の制度についてなんて知らない”という参考にならない返事ばかりだった。で、結局、“黒川先生って、器用に何でもできちゃう人だったからね。なんでもあるんでしょう、黒川先生には”というところで、みんな不思議と納得した。

 現場の第一線で働いていた姿しか印象にないから、黒川先生に“研究”とか“学問”とか“教授”などという言葉はしっくりこなかった。でも、結局あの頃、私たちは黒川先生のことも善場先生のことも何も分かっていなかったわけだ。だから、善場先生の部屋にずらりと並んでいた書籍類が本当は黒川先生の物だったという可能性すらあった。

「お待たせ」

 そこで桜井が戻ってくる。思ったより豪華でカロリーがありそうなマロンラテの姿にちょっとだけひるむ。

「今日は、小池くんや佐山さんも来れるの?」

 アイスラテを飲みながら、桜井が訊く。

「佐山さんは残念ながら忙しくて休めないって。小池くんと西川さんは現地集合で会えるよ」

「そっか」

 小池くんも結局あのあと半年くらいで別の事務所に移った。何度も受験しては落ちている先輩たちを見ていたからか、前回会ったときは、“一級試験は受けなくてもいいかな”など弱気なことを言っていた。今日会ったら、もう一度渇を入れてやろうと思う。

「いい場所。いい建物だよね」

 桜井がわざわざ後ろを振り向いて窓の外を見るから、席を替わろうかと提案したけれど、桜井は断った。

「こっちからの眺めもいいよ」

 カフェの壁の上部もガラスになっていて、桜井の席からはホールのロビーや階段、さらに向こう側の窓とその奥の緑が見えた。

「本当、最高の建物だね」

 私たちはそう言って笑う。これは“自画自賛”と言っていいのだろうか。

「いつかこんな素敵な仕事がしたいね」

 それはもちろん、私たちが設計する側になって、ということだ。

「しよう。必ず」

 私たちはまだ一級建築士試験に合格したばかりだ。でも将来、二人で事務所を立ち上げ、まずは個人邸の仕事から、そしていつか、善場先生や黒川先生みたいな仕事までできる建築士になりたいと話していた。

 まだそれは先の話だけれど、私たちは“事務所の名前はどうしようか?”“場所は?”など、話し合い、未来をたくさんイメージした。

 そのなかで決めたことの一つは……名前は“桜井充設計事務所”でも“藤田佳純設計事務所”でも、“桜井・藤田設計事務所”でもない、もっと普遍的なものにしたいね、ということだった。

 “二人とも春の花が名前に入っているから、スプリング設計事務所とか、ブルーミング設計事務所とか良くない?”と提案してみたが、桜井には渋い顔をされている。

 でも、ともかく私たち二人のどちらかがいなくなっても、二人ともがいなくなっても、二人が三人になっても、四人になっても……そんな変化に負けない名前にしたかった。

「最後は色々あったけど、でも本当、善場先生と黒川先生の事務所で働けて、俺はしあわせだったなと思う」

 桜井が言い、私も頷いた。

 結局私たちがあの頃見ていたのは、光だったのだろうか、影だったのだろうか。太陽だったのだろうか、月だったのだろうか。

 そう三年間、私は自分に問い続けてきた。

 でも最近、思うようになった。

 もうそれはどちらでもいいのだ、と。なぜなら、それはどちらもあの頃、平等にそこにあったのだから。

                      〈了〉

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