小説

その影を 2-5

※毎週火・金更新

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 そう、黒川先生のパソコンのロック画面に使われている美術館の外壁には、太陽と月の装飾がつけられているのだった。金属プレートで作られ、彩色もされず、飾り気をできる限り排除したものだから、さほど目立つものではない。でも、確かその美術館がある地区に太陽と月に関する伝説のようなものがあり、是非そのモチーフを使ってほしいと依頼された、という話だった。だから、地味ではあるけれど、奥底のテーマとして、太陽と月はあの建造物の要なのだった。

 私たちは黒川先生の席に駆け寄り、ロック画面を表示された。

「taiyoutotuki」「taiyoutotsuki」「taiyototuki」「taiyototsuki」

微妙な表記の揺れも含め、何度か入力する。「taiyo_tuki」など、ハイフンバージョンも含め、十数回入力するが、弾かれる。

「あー、違うの?」

 絶対これだ、と高揚した分、落胆も大きい。でも、そこで桜井が「代わって」と言い、キーボードを打った。

 今までと違う反応をパソコンが示し、パソコンのモーター音が大きくなった。

「行った!」

 数秒後、見慣れた螺旋階段の壁紙と、無数のファイルやショートカットが並んだホーム画面が表示される。

「すごい! 何て入れたの?」

「tukitotaiyo……月と太陽」

 そっか……。月と太陽……。ただ並び方を逆にしただけだ。でもやっぱり、ここにも“影ばかり見てしまう”と言った、黒川先生の心が垣間見れる気がした。

 桜井はパソコンのロックが解除されるや、デスクトップにあるフォルダやショートカットからホールの設計に関係しそうなものを探したり、フォルダ名を推測して検索を掛けたりし始めた。

 私も当然、その結果は気になった。でも、もっと気になることがあった。私は桜井を止めて、言った。

「ホールのデザインと設計……残された私たちだけで、できないかな?」

 私たちがどうあがいても、善場先生が生き返ることはない。つまり、黒川先生はもう、善場先生がいない世界で生きていくしかない。たとえ黒川先生が自分を月だと思っていたとしても。

 それなら、黒川先生と、残された私たちだけで、仕事ができるようにならなきゃいけない。でないと本当に、桜井が言ったように、この事務所だけでなく、黒川先生の存在自体が危うくなるのではないか。

「俺たちだけで設計できるように、今、こうやって頑張っているんじゃないの?」

「ううん……そういうことじゃなくて……」

「え?」

「善場先生がデザインや設計をまったく残していなかったとしても、一から作れないの? 私たちだけで」

「……それは……今、このパソコンのなかを探すのを辞めよう、ということ?」

 桜井がマウスに置いていた右手を離し、曲げていた腰も伸ばし、まっすぐ私を見る。

「そういうわけではないんだけど……」

 自分の気持ちにさえ、自分の理解が追いつかない感じがする。

「もし善場先生が何か残しているなら、それは絶対、使うべきだと思う。でも、何も残していなかったら……そのときは私たちだけでも、仕事を完了させたい、と思って」

「それはじゃあ、“何も残されていなかった”という結論に達してから考えてもいいんじゃない?」

 桜井の意見の方がずっと論理的だと分かる。でも私の気持ちの部分が、そうじゃない、と言う。私は多分、今のこの状態で、「たとえ何も見つけられなくても、俺たちだけでホールを作ろう」という力強い言葉を桜井からもらいたかったのだと思う。

 でも、私は言う。

「そうだね。……せっかくパソコンを開くところまで行ったんだもんね」

「そうだよ」

 桜井はほっとしたような顔をして、またパソコンの画面を必死になって覗きこむ。パソコンのなかに呑みこまれてしまいそうなほど。

 桜井は黒川先生の椅子に座り、次々フォルダを開けていった。私が関わっている案件も、関わっていないけれど、進行していることは知っているという程度の案件も、まったく知らなかった案件もあって、黒川先生はこんなにたくさんの仕事を同時並行的に進めていたのかと、改めて偉大さに気づく。

 そしてフォルダには、設計図や仕様書だけでなく、黒川先生が進捗を細かくメモした文書も入っていて、黒川先生がそれぞれのお客さんに細やかに対応していることも分かる。

「善場先生も、もちろん天才的なすごさのある人だったけれど……黒川先生も、ある意味、天才だよな」

 桜井も似たようなことを考えていたらしい。「とても俺には到達できそうもない場所だな」と言って、ため息をついた。

 黒川先生が設計するのは、ほとんどが個人邸だ。しかもその多くは、善場先生が設計した“デザイナーズハウス”的なお洒落なフォーマットを元に、お客さんの要望を聞いて、現実的な形に“修正した”ものだ。それでも時々、黒川先生がお客さんに出す最終的な設計図は、善場先生の初期のデザインを超え、よりオリジナルで、且つ、より住み心地の良い理想的な形になっているように感じることがあった。

 以前、黒川先生と一緒に担当した家に、完成後、実際に上がらせてもらったことがある。あれは確か、この事務所のPRのために、建築事例と“お客さまの生の声”が必要だということで、取材に行ったのだった。

 実際に上がらせてもらった家は、設計図から想像していたより、ずっと快適で、今まで趣味や勉強のために回ったたくさんのモデルハウスや内覧会では、見たことも感じたこともない、新しい空間だった。

 完成の一か月後だったから、すでに家主が家具を入れ、装飾を施していて、その人のセンスが良かったというのもある。でも、それを差し引いても、あの家は、家自体に愛と温かさが沁み込んでいるような、不思議な場所だった。

 そんなふうに、黒川先生とその“作品”について思いを巡らせていたら、桜井が言った。

「なんだろう、これ」

 デスクトップにあるのは、ほとんど私たちと共有されているデータばかりだったから、桜井はもっと下の階層に潜って、色々なフォルダを開けていたらしい。

「これ」

 私がパソコンの画面に目を向けると、そこには“initial”という英語のフォルダがあった。

「イニシャル?……頭文字ってこと?」

「あとは、イニシャルコストとか、“初期の”という意味だよね」

 そう言いながら桜井はそのフォルダを開ける。

「これだ! 見つけた!」

 桜井はそう言って、小さく右手のこぶしを握り締める。そして、私にも画面が見やすいように体を脇に傾けてくれる。

 私の目の前に、パソコンの画面全体が飛び込んでくる。そこには数多くのフォルダがあり、一つ一つに名前がついていた。……過去、善場先生が設計した作品の名前が。そして、最後のフォルダには“F公園ホール”と書かれている。

 桜井はそのフォルダをダブルクリックし、開く。

「あった」

 今度は、歓喜よりも、安堵の強い声だった。なかには、デザイン画であろう画像ファイルと設計図であろうCADファイルがあった。つまり、善場先生はもうデザインを仕上げ、黒川先生に渡し、黒川先生が設計図に落とし込むところまで、作業は進んでいたということだ。

「とりあえず、良かった」

 そう言いながら、桜井が画像ファイルを開く。画像ファイルが三つあるのが気になったが、三案あったということだろう。桜井は一番左のものを開いた。

 画像加工ソフトは起動に時間が掛る。起動が終わり、開かれた中身を見て、私は思わず言った。

「え?」

 桜井は何も言わなかったが、きっと同じ気持ちだっただろう。急いで次のファイルをクリックする。

 やはり、二枚目も同じだった。

 そして、三枚目。……これも……。

「これ……善場先生の描いたものじゃないよね」

 私の言葉に、桜井は無言で頷く。

「善場先生の描く線は、もっと細くて繊細で、彩色ももっと淡いものね……」

 今、目の前にあるのは、力強いタッチで描かれたものだった。

 間違いなくホールのデザインで、趣向を変え、三案作られていた。どれも素敵なデザインだった。でも……

「これ……黒川先生の筆跡……だよね」

「うん、黒川先生が描いたものだと思う」

 桜井もようやく沈黙を破り、口を開く。

「でも……どうして?」

 桜井はそれから、ファイルが作成された日付を調べる。善場先生が亡くなる三日前。……つまり、善場先生が亡くなってから、黒川先生が“それなら代わりに”と描いたものではない。

「善場先生のデザインと設計を、黒川先生が現実的な設計図に磨き上げていく……そういう役割分担じゃなかったということ?」

「うん……」

 桜井はまた黙りこむ。自分の頭のなかを急いで整理しようとしているみたいだ。

「二人でアイディアを出し合っていたのかな……それとも……」

 私は桜井と違って、言葉を口に出しながら、頭を整理するタイプらしい。頭の混乱が言葉になり、外に溢れていく。

 そして、その言葉が勝手に、私が辿り着きたくなかった“答え”に近づいていく。

 桜井はまだ何も言わないが、桜井は桜井で行き着いた答えがあるのだろう。無言のまま、違うフォルダにマウスのポインターを当てた。

 私が模型を作った、あの専門学校のフォルダだ。ダブルクリックすると、フォルダは開く。その時間は一秒に満たないほどなのに、とてももどかしい。開いたフォルダのなかにも、やはりデザイン画らしい画像ファイルが複数ある。ホールのフォルダと違い、設計図ファイルも複数ある。

 桜井はまた画像ファイルを左端から開けていく。一枚目……二枚目……三枚目……四枚目……。

 やはりどのデザイン画も黒川先生のタッチだ。そして、二枚目のデザイン画は、今日善場先生の部屋で見つけ、さっきまでミーティングスペースのテーブルに広げていた、善場先生のデザイン画とほぼ同じだ。

「これってつまり……」

 個人邸だけでなく、ホールや学校や教会などプロポーザルでとったような大きな仕事も、全部黒川先生が一からデザインしていたということか……。

「でも、まだ分からないよ」

 頭の中で私と同じ結論に達したであろう桜井が慌てたように言う。

「善場先生がイメージを伝えて、それを黒川先生が絵にしただけかもしれない」

 私は首を横に振る。

「ありえないよ。……善場先生が絵を描けないなら、それもあるかもしれない。でも……デザイン画のレベルは、明らかに善場先生の方が上だよ」

 つまり、黒川先生がたくさん出したアイディアから良いものを選び、それを善場先生がきれいなデザイン画にしていたということだ。もう……そうとしか考えられない。それはつまり……

「善場先生は……お飾りだったということ?」

「いや……そんなわけ……」

 そう言いながらも、桜井は私の辿り着いた結論を論理的に否定することはできないようだった。

「ちょっと……ゆっくり考えよう」

 桜井はそう言って一つ大きく息を吐き、他のフォルダのなかに入っている画像を確認していったが、“反論”は見つけられなかった。桜井はそのまま無言でパソコンをシャットダウンした。

「明日、みんなに話して……これからのことを考えよう」

「そうだね」

 私も同意した。

 電源が落ち、真っ黒になったパソコンの画面を見ながら思った。“でも、月って……?”と。

 そのあと私たちはほとんど話さずに駅まで向かい、そこで別れた。その日はよく眠れなかった。

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