小説

その影を 1-6

※毎週火・金更新

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 そんな変なことを考え始めたとき、入り口の方で音がした。泥棒かなにかと鉢合わせてしまったのならどうしよう。そう身構えたとき、黒川先生が扉の向こうから現れた。

「おぉ、藤田さん」

 黒川先生も驚いた顔をする。

「てっきり僕が電気を消し忘れたのだと思った。……どうしましたか?」

 私は素直に財布を忘れて取りに戻ったのだと話す。

「それはまた災難でしたね」

「先生はまだ仕事されていたんですか? 善場先生もまだ二階に?」

「あぁ、次のプロポーザルの件の相談をね」

「あの、公園のホールのですか?」

「あぁ、そう。このあいだ、藤田さんにも現地を見に行ってもらったものね」

「はい。好みの公園でした」

「好みの……?」

 私の言い方に、黒川先生はちょっと笑った。

「でも、分かるな。いいよね、あの公園。広い公園はどこもいいけれど、なんというか、特にあたたかさが満ちているように感じる。……手入れしている人に愛があるのかな」

 設計士は基本みな理系だ。そうすると理論が先行し、合理的だけれどやや冷たい組織になることも多い。私の以前の職場はそうだった。でも善場喜一郎設計事務所の良さは、理論の外にある、もっと曖昧なものの存在をおおっぴらに認めて会話ができることの気がする。

「はい、それって、とても大事ですよね」

 ただ、“愛がある”というと、とても抽象的に思えるが、結局それが“じゃあ、来る人が心地よく過ごせるように、どこにベンチを置くのがいいだろうか”“どこにどんな売店があって、品ぞろえはどうするのがいいのだろうか”“誰を対象にしたどんなイベントを開催すればいいだろうか”……など、具体的な行動に発展していく。

 設計も同じだ。どんなに見た目が良く、機能的に見える施設や住居でも、結局それを使う人への想いがなければ、決して居心地の良い、使い勝手の良い場所にはならない。

「結果はいつ出るんですか?」

「あぁ……結果はまだ大分先ですよ。……まだ書類を出してもいないからね。……藤田さんは気が早いですね」

「あぁ、そうですよね。まずは締め切りはいつですかと訊くべきでした」

「受注できたら、模型作りなど、藤田さんにお願いするから、そのときはよろしくね」

「はい! 楽しみにしています!」

 模型作りも楽しみだし、現地視察という名目であの公園に通えるのも楽しみだ。

「そこまでストレートに言われると、プレッシャーも感じるけど」

 そう言いながら、黒川先生は自分のデスクに戻る。黒川先生のパソコンはスリープ状態にあったようで、マウスを軽く動かすと画面が明るくなる。CADで設計図を描いているところだったようだ。何の設計図だろうと覗きこもうとしたら、黒川先生は画面を閉じた。

「善場先生はもうホールのデザインを考えているんですか?」

「ざっとは考えているだろうね。まだ固まったデザインにはなっていないだろうけれど」

「そうですよね」

 公共施設の設計など、ある程度大きな仕事は、プロポーザル方式で受注できるか決まることが多い。建築業界にいない人は、そういうのはコンペで決まると思っているが、主流はプロポーザルだ。

 コンペが設計図の審査なのに対し、プロポーザルは設計者や設計事務所の審査になる。コンペの場合、とても独創的で素晴らしい設計図が、たとえばほとんど経験のない学生などから出されることもある。そういった場合、その設計を採用すると、実際の建設段階になった場合、設計者ではない経験豊富な建築士が指揮を執る必要が出てきてしまう。

 また、コンペの場合、実際にすぐ実用化できる精度の設計と、場合によっては模型などを制作する必要があり、受注が決まる前に設計事務所には大きな負担が掛る。それに対し、プロポーザルは、代表設計士や事務所のプロフィールや実績と、今回の募集に関して、“私たちなら、このような提案ができる”ということをざっくりまとめ、提出すればいい。プロフィールや実績は毎回使いまわせるものだし、準備の手間がコンペとプロポーザルではまったく違う。

 しかも善場喜一郎設計事務所に来るのは大抵“指名制プロポーザル”だ。つまり、向こうから“是非、参加してください”と声が掛るということで、その場合、二分の一や三分の一くらいの確率では仕事が受注できる。

「個人邸の仕事もやりがいがありますけど、そういう大きな設計、いつか私も一級建築士になったらやってみたいですね」

「そうか、藤田さんにはそういう野望があるんですね」

 “先生は、ないんですか?”その言葉は飲みこむ。もうこの質問は過去に何度もしているから。黒川先生は“特にないねぇ”という、次が広がらない返事を寄こすだけで、なんとなく気まずく会話が終わる。たとえそこでひるまず“なんで、ないんですか?”と訊いても、“そうだねぇ、今の仕事も充分楽しいし、この事務所のなかで僕のスタンスとして、一番ぴったりくるでしょう”という、やはりどこかごまかされた感じの返事が続くだけなのだ。

 この事務所に勤め始めて五年で、それはよく分かっている。それでもやっぱり、“本当にそうなの?”と黒川先生を問い詰めたい気持ちはなくならない。

 黒川先生は見た目も悪くないし、性格はもっと悪くない。下で働いている人間がそう思うのだから、間違いない。それなのに、なぜか独身だ。恋人の影も感じない。バツイチなわけでもないらしい。今は“ダイバーシティ”の時代だから、結婚するしないはもちろん個人の自由だけれど……でも、この事務所の多くのスタッフは思っている。きっと黒川先生はLGBTQで、黒川先生と善場先生は仕事だけでなく、プライベートでもパートナーなのだと。

 善場先生は確かにとてもすごい人だ。それは私も認める。でも、黒川先生の善場先生への尊敬の念は、私たちの感情とはまったく別物のようにも思えるのだ。

 そんなことを言葉にはできず、頭のなかでぐるぐる回していたら、急に黒川先生が言った。

「じゃあもし、あの公園のホールの設計を藤田さんがするとして、どんなコンセプトで作りますか?」

 一級建築士試験の口頭試験問題を急に出されたようで、たじろぐ。実際の建築士試験に口頭試験などはないが。

「え……あ……」

 急な質問に頭のなかが真っ白になる。

「そうですよね……ダメですね。野望を持つなら、試験に受かる受からないの前に、ちゃんと自分の頭で考えるようにしないと、ですね。……これじゃあ、ただの憧れだ」

 私の自分に対するダメ出しに、黒川先生は柔らかく笑った。

「いや、そんなふうに追い詰めるために質問したわけではないですよ」

 そう言いながら、黒川先生はさっき私が見ていた専門学校の校舎の模型の前に立った。

「藤田さんの模型を見ていると、頭の中に世界を広げられる人なんだろうなと思うから、純粋に意見を聞いてみたかったのです」

「あぁ……」

 そんな風に黒川先生に言ってもらえるのは、素直に嬉しい。

「こういう真っ白な模型の影って……いいですよね」

 黒川先生は急に話の矛先を変えて言った。

「影……ですか?」

「藤田さんは普段、光を見ていますか? 影を見ていますか? 影を作りだす物体を見ていますか?」

「物体……ですかね。それから、空間」

「あぁ、空間。そうですよね。建築物というのは、建物も作りますが、空間を作るものですよね。そして、建物自体ではなく、建物の作り出す空間がそこに生活を作り、そこに生きる人の物語を作りますね」

 私はまた自分の作った模型のなかで生活する自分の姿と、架空の友達の姿を想像する。

「先生もやっぱり設計するときには、たくさん想像しますよね。その家で暮らす人、その建物を使う人のこと……」

「それは、もちろん」

「でも、影というのは……?」

「あぁ、こういう模型とか、ただの木とか、ベンチとか、そういう“物”を見るとき、なぜか気になってしまうんですよね。……昔写真を撮るのが趣味だったからかな。僕は、影ばかり見てしまう」

 建物を建てるとき、日当たりを考えるのも重要だ。そして個人の家で日当たりを考えるということは、周りの家や建造物の影を気にすることであり、これから建てる家が近くの家に影としてどれくらい影響を与えるか考えることでもある。

 でも、黒川先生が今言っていることは、それとはまた違う話の気がした。

「確かに、光があれば、必ず影ってできるんですよね」

「影を打ち消す光をさらに足さない限りね」

 会話はそこで終わり、私たちはしばらく無言で本当にわずかな影を落とす、薄暗い事務所に置かれた模型を見つめていた。

「ごめんね、なんか馬鹿な話に付き合わせて」

 少しすると黒川先生が言った。私は「いいえ」とだけ言い、事務所を後にした。黒川先生はもしかしたら最近少し疲れているんじゃないかなと思った。

 

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