小説

「その影を」1-1

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 善場喜一郎設計事務所は池袋駅から徒歩十分ほどの場所にあった。池袋駅が最寄というと繁華街のような場所をイメージされがちだけれど、池袋は駅から離れると意外とすぐ下町みたいな雰囲気のある住宅街になる。築五十年以上経っていそうな、外階段が錆びて朽ちかけたアパートも普通にあるし、印刷所を中心とした町工場もまだ残っている。

 事務所はそんな住宅街のなかにあった。築三十年くらいの決して新しくはない一戸建てだが、設計事務所だけあって、中は何度もリフォームされており、事務所のなかは近代的な空間になっていた。ときどきお洒落なオフィスとして雑誌の取材も受けるほどの空間は、機能性も良く、私たちスタッフはよく“もう他の職場では働けないね”と話した。

 目隠しのために適度に飾りの入った窓からは柔らかな光が差し込み、高めの天井にはわざわざどこかから取り寄せたらしい古木が何本か格子状に渡されていて、そこに手入れの必要がないエアプラントの緑が埋め込まれていた。一人ひとりのデスクも大きく、それさえ本物の木でできたぬくもりのあるものだったが、長時間座る椅子は疲れが軽減できるような最新設計のオフィス家具だった。

 つまり善場喜一郎設計事務所には、言葉ではない優しさと愛があふれていた。

 元は二十年ほど前に善場先生が黒川先生と二人で立ち上げた事務所だった。それが、スタッフがひとり、二人と増えていき、今は総勢九名の、アトリエ系設計事務所にしてはそれなりの規模になっていた。

 私が入所した五年前には、すでにオフィスの二階は、善場先生の“社長室”的な部屋と応接室と倉庫になっていたが、元々この建物は善場先生の家だったらしい。設計事務所を始めて十年近くは、一階が事務所で、二階は善場先生の住まいだったという。

ただ今は二階も完全リフォームされ、家だった頃の名残はない。「お風呂とか残しておいてくれたら、ここに住めたのに」と言っているスタッフもいるけれど、善場事務所は設計事務所にしてはかなりホワイトな組織で、実際には泊まり込むような残業をする人はいなかった。

「善場喜一郎設計事務所」という名前が示す通り、事務所の仕事の多くは善場先生への依頼だった。善場先生は、基本的に日々の実務やマネジメントから離れ、ほぼいつも一人二階で自らのデザインと向き合っていた。私たち“下っ端”は、善場先生と月に数回しか顔を合わせないのが普通だった。

 その代わり、黒川先生はいつも一階にいて、私たちスタッフの“リーダー”として、実務と管理職的な仕事をすべてこなしていた。

 それが、あの頃の善場喜一郎設計事務所だった。

 

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