過去Diary

欠如と空虚

 人は結局、自分の生きている世界に、本当に満足しきったりできないのだろうか。「人は、「そこ」なしでは「ここ」にいられない。「そこ」に憧れつづけることなしには、「ここ」は「どこ」になってしまう」前も「日記」に書いた言葉。そうではないといいたいけれど…。

 今、授業でデュラスの作品を読んでいる。この間、先生が、デュラスの「モデラート・カンタービレ」について話していた。
 
 その話は、上流社会の婦人が、自分とは違う世界に憧れ、ちょっと不倫らしきことをする話だが、それだけの甘い話ではなく、その不倫のところで話されているのは、相手に自分を殺すように求めた女の人の事件。結局、これは、自分が本当に望むものを真っ直ぐに望み、実行してしまうと、そこには「死」しかない、という話だ。先生はそうその作品を解説して、一言こういった。「だから、人が淋しいのは当たり前なんです」

 人はどこまで、自分の望むものを手に入れられるのだろう。どこまでを望んでいいのだろう。

 中国残留孤児が、この頃よく日本に来ている。自分の全てを掛けて、「母」なり、親族を捜している。でも、私が悲観的なだけだろうか。本当に会えたとしても、そこには長年憧れ続けていただけの幸せ、暖かな家庭があるのだろうか。その「母」というのは、決して見つけてはいけないものなのではないだろうか。そう思ってしまったりする。

 演劇に詳しい人なら必ず知っている「ゴドーを待ちながら」という戯曲がある。これは、一言でいうと、二人の中年の男がゴドーという人を待っているけれど、ゴドーは最後まで現れない、というだけの話だ。この「ゴドー」というのは「ゴッド」すなわち、「神」ではないか、というのは有名な話だ。人は、何かを待ち続けている。

 淋しいとき、悲しいとき、誰かの存在を必要とする。それは本当は誰でもいいのかもしれないし、誰にも癒せない淋しさなのかもしれない。でも、誰かに会えないとき、その淋しさがあたかも、その人ただ一人のせいの気がしてしまう。自分の淋しさ全てを埋めてくれる存在を、でも本当は頭の中で作り上げているだけなのかもしれない。本当はそんな人はいないのかもしれない。…「淋しいのは、当たり前です」か…。

 でも、欠如を感じると言うことは、埋まっているところもあるということかもしれない。始めから、何もないところなら、「空虚」は感じられても、「欠如」は感じられない。欠如って、淋しさって、パズルの1ピースぐらいのものなのかもしれない。もしかして、残りの499ピースとか、999ピースとかは、すでに持っているのかもしれない。だから却って、淋しいのかもしれない。その1ピースのないことが。

 昨日だったか、テレビで、今は遺伝子によって、簡単に親子鑑定ができるという話をしていた。それを一緒に見ていて、母が、もし「本当のお母さんは他にいるのよ」と言われたらどうする? と聞いてきた。私は「別に、あんまりそういうのは関係ない」と言った。それが本気ではないと分かっているから言えたのかもしれないけれど、もし本当の親が別にいても、私は会いには行かないだろうと思う。…それは、私が家族に関して、欠如を感じていないからだろう。もし、この家族に不満があったら、きっと本当の親を探しに旅に出るだろう。

 欠如を感じるなら、埋めようと必死になればいいのかもしれない。求めていたものを手に入れても、欠如が埋まらなかったら、他のものをまた探し求めればいいのかもしれない。その過程は、実は救われているのかもしれない。でも、欠如した部分より、今あるものに目を向けることができることは、もっと素敵なことかもしれない。難しいが故に素敵なこと。

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