過去Diary

触覚

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 北海道に行ったとき見た、アイヌの彫り物がとてもきれいだった。
 
 小さな土産屋さんで、実際に自分でそれを彫っている人が、「アイヌの模様は、人の目や、植物の実をモチーフに作られているんですよ。とにかく、アイヌの人にとっての神様ですね。」などと解説してくれた。それは本当にきれいだった。

 小さなペンダントに、1ミリの100分の1ぐらいでしか測れないような精巧な模様が彫りつけてある。見ているだけで、幸せだった。観光地化した阿寒湖を見るより、その「作品」をぼんやり見つめていたかった。人の「手」の持つ「作る」という力を、それを通して感じたかった。信じたかった。失われつつある力・・・。機械の時代には。小さい頃、触覚を鍛えた子供は、感性豊かになる。本当か分からないけど、なんだかなるほど、と思わされる。
 
 日本語の「助詞」は、外国の人にはさぞかし理解することが難しいだろうと思う。私も教える自信は全くない。でも、「助詞」について、一つ好きなエピソードがある。5感の中で、触覚だけは、「を」を使わずに「に」を使う、と。

「ノートを見る」「パンを食べる」「ラジオを聴く」「花のにおいをかぐ」そして、「手に触る」。

「を」は、対象を表す。「私」は「ノート」を見ても、「ノート」は「私」を見ない。でも、「手に触れる」右手は左手に触れ、左手は、右手を感じる。「花に触る」私は「花」に触れ、「花」は「私」に触れる。

 きっと、その彫り師は、アイヌの神かは知らないけれど、木の中に宿る何か力に触れているのではないか。だから、そのようにそのペンダントは美しいのではないか、と思った。私も、そんな作品を作りたい。

 結局私は、そのペンダントを買わなかった。高くて買えなかったというのも、恥ずかしながらあるけれど、でも、それはとても美しかったから、手に入れたくなかった。
 
「所有」ということは、本当はとても怖いことだと思う。それは、「飽き」に対する私の恐怖でしかないかもしれない。私がその作り手以上には、その「力」を感じ続けられないだろうという、「敗北」かもしれない。よく分からない。でも、今の世の中、簡単にものが手に入りすぎる。(何か、老人の言葉みたいか・・・(笑))

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