過去Diary

過去を作り続ける

 眠る前のちょっとゆったりとした時間。一日にするべき事を終え、体が疲れていて、何だか動きたくなくて、ただぼんやりとする。そういう時間、これから一週間の予定を見直して、頑張ろうと思うときもあるけれど、最近はちょっと疲れているのか、過ぎ去った時間に目を向けることが多い。

 電車に乗るとき、進行方向を向いて座るより、逆向きに座った方が、心理的にはいいらしい。これから来ることより、過ぎ去っていくものを見ていた方が、心は落ち着く。

 でも、そうやって、ただ安易な方向に走っていかないように注意しよう。過ぎ去ったものは自分を傷つけたりしない。傷を思い出させることはあっても、新たに傷を作ることはない。だから、過去の回想に浸ることは実は結構心地いい。

 でも、反省することなくただ後悔したり、ノスタルジーに浸るだけでは、過去を思い出しても、それは何のプラスにもならないだろう。疲れたとき、幸せだった日々は自分を癒してはくれるかもしれないけれど。それよりもっと、有意義に過去は利用できると思う。

 たとえば、誰かと深く関わるとする。実は、その関わっている時間より、その人との関係がなくなったときの方が、その人自身のことを考えやすい。私が幼稚で、自分本位に生きているだけかも知れないけれど、私が思うには、その人との関係の中では、やっぱり自分というものをその人の存在と切り離して考えることができない。だから、その人自身のことより、その人と自分の間にあるものとか、その人が自分に対して持つ意味を考えてしまう。人との関わりって、結局はそういうことだと思う。その人が自分にとって何なのか。
 
 でも、離れて考えるのは、私に対して力を持たなかった、その人がもっと奥に隠していた淋しさとか、過去とか、私の存在を抜かした純粋なその人の将来とか。ただ本当に私が未熟だっただけかな。私の存在と絡まっているときは、そういうことをきちんと見つめられなかった気がする。自分を守ることを優先させてしまっていた気がする。近すぎると、物事はかえってよく見えないもの。

 過去を回想する。大きなイベントを覚えているのは当然だけれど、たとえば、自分が覚えている「木」はなんだろう。自分の覚えている「水」はなんだろう。そういう風にして思い出していくと、何でこんな時のことを、こんなに鮮明に覚えているんだろう、と思う。その時はそんな風に自分の中に残るとは思っていなかった場面のなんと多いことか。

 私は今も、過去を作り続けている。今こうやってパソコンに向かっている、その何でもない時間が、いつかどうしても戻れない、ものすごい優しさに包まれた時間として思い出されるのかも知れない。何が、大切な思い出になるか分からない。

 ソーントン・ワイルダーの「わが町」の最後の方のシーンが好きだ。女の人が死んで、ある一日、好きな日に戻らせて上げると言われる。その人は大きなイベントのあった日を言うが、「誕生日ぐらいにしておきなさい」と言われる。

 誕生日。ちょっと特別で、でも意外となんてことない日常の一日。その女の人はその日に戻り、家族と再会する。そして、世の中の時間の余りに速いことに、驚く。お母さんが、プレゼントをくれる。でも、さっさと、「学校行きなさい」と言いながら、台所に行ってしまう。その人は「プレゼントなんていいから、もっとちゃんと私のことを見て」と思う。
 
  記憶がかなり曖昧なので、ちょっと私の脚色もあると思いますが(^^;)、でも、振り返ったとき、大切なのは、意外と些細な日常の温かさだったりするんですよね。

 いつ、どの瞬間が、思い出になるか分からないのなら、どの一瞬も大切にしよう。思い出は美しくなるものだけれど、その思い出より、今が幸せだと思えるように、思い出と戦いながら、新しく、もっと輝く思い出を作っていこう。

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