過去Diary

生かされている

  この頃思うんですけど、前向きに生きるために必要なのは、自分がこうしたい、自分がこうなりたい、と言う目標を掲げることよりも、自分は何を人から求められていて、それを満たしてあげるためには、自分は人に何をできるか、って側から、自分の存在を捉えることだと思うんです。(あ、これは誰か有名な心理学者の言葉に納得してしまっただけで、私の言葉ではないですよ。)
 
  前、私の「日記」を読んで、「死」について何か分かった気がする、とメールをくれた人がいました。
 
  その人は、友達が、「自分は生きているのではなくて、生かされている」と言って悩んでいて、その人に何を言っていいか分からなかった、と書いていました。きっと、その「生かされている」は、マイナスの意味なのだとは思います。
 
  でも、私はキリスト教系の学校に6年間通っていましたが、キリスト教では、人は神によって「生かされている」んですね。その「生かされている」は、とても肯定的な意味です。…自分の力で生きているんだ、っていいたければそれでいいと思う。でも、独りよがりに、自分が生きたいから生きているんだ、じゃなくて、神様とか他の人とかに、必要とされているから生きている、って考えられた方が、きっと生きることは楽になる。

 おととい、高尾にある、母の妹のお墓に行きました。母の妹と言うことは、私の叔母ですが、その人は14歳でなくなってしまっているので、私には「母の妹」としか思えない、知らない人です。
 
 でも祖母や母がよく、私がその人に(見た目ではなくて、雰囲気において)似ていると言うんですよね。私も会ったことがないせいか、すごくその人の存在を身近に思える。生まれ変わりなのだろうか(笑)
 
 あと、母は私を生む1年ぐらい前に流産したらしいんです。それって、もしその子供が産まれていたら、私は産まれていなかったってことなんですよね。…私は小説とか書いてしまうぐらいで、結構小さい頃から空想癖があったのか、子供の頃はよく自分の中のもう一人の人と話をしていた気がします。それは、会ったことのない母の妹だったり、この世に産まれられなかった兄か姉だったりするのかもしれません。…私はその人達によっても、「生かされている」のかもしれませんね。

 そして、「死」さえ、嘆くべきものではありません。きっと。お墓参りをしたあと、高尾の紅葉を眺めていたら、そんな気分になりました。次の世代を生かすためには、やっぱり死ななくてはいけない世代もあるわけです。「死」って、世の中を「引退」とか「退職」することなのかな。…私は、「葉桜」が結構好きなんですよ。季節はずれですけど(^^;) 葉をだすために、潔く散っていく花びら、そして、花を散らした痛みに負けず、一生懸命に茂っていこうとする、幼い若葉…。そんな風に、真っ直ぐに生きたいと思います。

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