過去Diary

記憶の更新

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 時が流れていく。そして、記憶はうすれていく。それは容赦のないことで、どうにもならないこと。人の心は、日々少しずつ変化し、あるものは芽生え、あるものは褪せる。

 この間、私が3歳から5歳ぐらいを過ごした、秋田の大館という場所に行って来た。自分の住んでいた家は壊れてしまっている。でも、柵や塀や、その家の前の狭いみちなりだけは変わっていない。その記憶は、きっと私自身のものではなく、親の目から撮られた8ミリフィルムの映像として私の中に植え付けられたものだろうけれど、本当に微かに、私の中にある記憶に重なった。

 本当は、「失われた時を求めて」で、一杯の紅茶から、5000ページぐらいの書物が編めてしまう、そんな記憶の洪水を期待していたのかもしれないけれど、人の記憶は、褪せていってしまうものだ。昔私は秋田弁をしゃべっていたらしいが、2,3日秋田にいただけで、その言葉が移りそうになった。それくらいの、懐かしさ。知っているような、知らないような、光景。

 写真を撮り始めて、1年と少し立った。その1年、カメラを持って、色々な場所を歩いた。みんな街はそこにしかない特質を持っている。でも、どこか似ているシーンに出会うときもある。

 人の記憶というのは、パソコンのハードディスクと違い、一つ一つがファイルとしてきれいに収まっているわけではない。それは、「集積」ではなく、常に「生成」し続けるダイナミックなシステムだ、と、港千尋という人は言っている。

 似た風景に出会うと、それによって思い出されるシーンと、そのシーンを見たときの自分の気持ちがふっとわき上がる。そして、きっと、「今」の気持ちは、今目の前にあるシーンだけではなく、その似たシーンと、その時もっていた気持ちの記憶にも影響を及ぼす。

 だから、大事な思い出のある場所には、その思い出を壊したくなくて、行けないときがある。でも、違う。きちんと、そのシーンに、今の色を与えてあげなくては。

 でないと、そのシーンはただ色褪せて、消えていってしまう。

 「どこかで見たことのある風景」としか思えないくらい、そのシーンの記憶は、衰えてしまう。

 記憶を更新することを、怖れないでいようと思う。

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