早稲田のお気に入りの劇団の公演に行ってきた。
最近ここは、昔の作品のリバイバルをすることが多いようだけれど、前回の「サナギネ」と違い、元を見たことがなかったので、比較できないのが残念。
今回の話は、大学闘争時代の話。そんな時代を生で体験していない人が、作品を作ることの壁はやはり感じたけれど、おもしろいことはおもしろかった。
私は基本的にあまりお笑い番組で笑えない方なのだけれど、この劇団の笑いはなかなかつぼにはまる。
そういうのってどうしてなのだろう。笑いはいくつかの種類に分類ができるものかもしれない。
以前から「笑い」というものについては考えたりしてきたけれど、深刻なストーリーに適度な笑いがあると、甘いものにかけた塩のように効果がある。ただ、あまりに「笑い」に走りすぎると、伝えるべき本当の部分がかすんでしまわないか、それは気になった。
表現に必ずしもストーリーや主張は必要ないと私は考えているけれど、もし伝えたいことがあるのなら、もう少し真剣に分かりやすくそれを表すべきかもしれない。
あと、話は少しずれるかもしれないけれど、今、久しぶりに演劇についての小説を書いている。演劇の世界の不安定さ、現実でないものを作っているはずの人間の背後に重くのしかかる現実、みたいなものを書きたいなと思って。
今回、この芝居を見に行って、私の書きたいものは、舞台のそでにはける役者の後ろ姿みたいなものなのかもしれないと思った。
上手く言えないのだけれど、役者を続けるには、現実の世界でたくさんの犠牲を払う必要があって、その犠牲の重さを役者達は背負い、それに引け目も感じ、それで強がったりもしているんだけれど、見ている側の人間は、現実の生活を取り、夢を捨ててしまった人間がほとんどで、そういう人間は、逆に役者の背負っている欠如感に惹かれるんじゃないかな……っていうようなこと。
あー、やっぱり上手く言えないや。短くまとめられることじゃないから、長い小説書いているんだし、しょうがない。