小説

その影を1-4

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 実際に行ってみてもその土地はかなり良かった。庭園は思った以上にこじんまりとした質素なものだったが、建築予定地からは緑の生垣と風情ある東屋の屋根が見え、落ち着く風景だった。

 私は黒川先生に言われた通り、土地や周辺の写真を撮り、メールで送った後に電話でも先生と話し、無事今日の業務は終了となった。

 思った以上に遠かったせいで、ほとんどいつもの終業時刻になっていて、せっかくの“直帰”もあまり得した感はない。でも、せっかくなので、普段来ることのない街の雰囲気でも味わって帰ろうかと、少し遠回りして辺りを散歩しながら、駅に向かった。

 最近駅前はどこも似たような店舗が入った、似たような雰囲気の場所になっている。でも、大都市でない限り、駅から歩いて五分も離れると、その土地土地の顔のようなものが垣間見える。この街では、古い造りの味噌屋さんと、大きなお寺を見つけた。お寺には塀の外からでも見えるような大きさの白い弥勒菩薩像があった。商店街はこの街でも“元商店街”のようになってしまっていたが、床屋と八百屋、古い喫茶店、クリーニング店が残っている。八百屋の前では立ち話をする年配の女性の姿もあり、まだ温かさの残った、住みやすい街なのかもしれないと思う。……善場喜一郎設計事務所で個人邸を主に担当するようになってから、建物だけでなく、街のことも気になるようになった。

 普段夕食を食べる時刻よりは随分早かったけれど、せっかくなので懐かしい雰囲気を醸し出している喫茶店に入り、昔ながらのナポリタンとコーヒーを注文して、食べた。

 と、そこまでは良かった。会計をしようと、鞄に手を突っこんだが、財布が見つからない。考えてみたら、事務所を出てからここまで、スマホのなかに入っている交通系ICで電車に乗り、飲み物を買っただけで、現金は使っていなかった。青ざめた。

 なぜこのタイミングで現金しか使えそうもない店に入ってしまったのだろう、と後悔するが遅い。まだコーヒーが半分残っていたけれど、そうなるともう味はしない。

「ごめんなさい……」

 素直に謝って、一度事務所に戻って財布を取ってこようと思ったとき、レジにバーコード決済のプレートを見つける。キャッシュレス化の波はこんな店まで及んでいたのだ。すんでのところで無銭飲食の罪は逃れた。

 店を出たあと、“明日でいいか”と思いかけたけれど、やはり免許証も保険証もクレジットカードもキャッシュカードも入っている財布が手元にないのは心もとなく、一度事務所に戻ることにした。セコムカードは財布には入れず、首から掛けるホルダーごと鞄に直接入れていたから、事務所に誰もいなくても入ることはできた。

 

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