小説

その影を 2-1

※毎週火・金更新

※この作品は「プロローグ」から始まっています。

 

 打ち上げの翌日は日曜日で、みんな休みだった。日曜日でもお客様との打ち合わせで部分的に出勤するときもあるが、その日はうまくみんな休みが取れていた。

 それで私も遅くまでベッドの上で何をするでもなく、ぼんやり過ごしていた。二日酔いで少しだけ頭も痛かった。

 そんなとき、急に携帯が鳴った。SNSやショートメッセージが届くことはあるが、携帯が鳴るなど珍しい。実家で何かあったのだろうかと手を伸ばして携帯を手繰り寄せ、画面を見ると掛けてきたのは桜井だった。

「どうしたの?」

 ちょっとまだ眠気の残る声で電話に出たが、桜井の声は切羽詰まっていた。

「危篤だって」

 最初にその言葉だけが聞こえる。危篤? 誰が?

「善場先生が……」

「え?」

「さっき、黒川先生から連絡もらって、黒川先生が全員に電話しようとしていたけれど、俺がみんなに掛けますって、代わって」

 そんなことはどうでもいい。でも、優先順位が分からなくなるくらい、普段冷静な桜井がてんぱっているのだということは分かる。

「危篤って……? どうして急に? 事故?」

「いや、病気だって。……前から薬を飲んでいたって」

「でも……」

 薬を飲んでいたのに、急に悪化したということなのだろうか。桜井の説明も要領を得ないが、私の頭も働かない。

「今、善場先生は病院ってことだよね?」

「そう。昨日の夜、黒川先生が帰ったら、善場先生が倒れていて、慌てて救急車を呼んだって」

 頭が混乱して、情報が上手く整理できない。こんなときに、やっぱり黒川先生と善場先生は一緒に住んでいたのか、などということが気になったりしている。

「桜井も病院にいるの?」

「いや、まだ家だよ。これから向かう。みんなに連絡してから、と思って」

「あぁ、そうだよね。私も向かう」

「うん。……ただ、黒川先生が言うには……間に合わないかもしれないって」

「間に合わない?」

 腕のあたりがぞくっとする。何? 間に合わないって、どういうこと?

「いや……でも、とにかく行こう」

 病院で会おうと約束をして、電話を切る。

 早く着替えをして、メイクをして、出掛けなくてはと思うのに、体が思うように動かない。“どういうこと? どういうこと? これからどうなってしまうの? 善場先生は大丈夫なの? 間に合わないって何?”

 頭の中で答えのない問いばかりが巡った。

 

 病院に着くと、先に到着していた西川さんがナースステーション近くのソファーにいて、「藤田」と声を掛けてくれた。

「善場先生は?」

 西川さんは無言で首を横に振る。桜井に言われたときから、半分は覚悟してきたつもりなのに、頭が真っ白になる。

「私も間に合わなかった」

 少ししてから西川さんが喉の奥から絞り出したような声で言う。

「今は黒川先生がそばについている。……平静でない黒川先生を初めて見た気がする」

 西川さんはきっとその姿を見ていられなくて、病室から出てきたのだろう。

「みんながそろったら、一度挨拶だけして、帰ったほうがいいかもしれない」

「そう……。お子さんとかは来ていないのかな」

「来ていないんじゃないかな」

 善場先生は若い頃は結婚していて、子供が二人いると聞いたことがある。子供と言っても、私たちより年上の立派な大人のはずだけれど。

 善場先生が連絡を断っていたのか、それとも黒川先生が連絡をしなかったのか……。

「それにしても……急すぎますよね」

 走るように急いで来たのだけれど、西川さんに言われた通り、病室に向かうのは諦め、西川さんの隣に座る。

「善場先生……事務所のなかでは長老っぽかったですけど……まだ六十代前半ですよね」

「六十一。……でも私の知り合いでも、四十歳で急死した人もいる」

「そう……ですか」

 世の中にはもっと若くして、急に命を失う人も当然いる。病気だけでなく、事故でも。それでも人は、自分や自分の身近な人がある日突然、年齢とは関係なく亡くなってしまうなど考えて生きてはいない。

 こんなときに考えるのは不謹慎だとは思いながらも、やっぱり明後日からの仕事のことが気になる。昨日受注を祝ったばかりの公園のホールの仕事は、やっぱり断るのだろうか。個人邸の仕事は黒川先生がいれば問題なく続けられるけれど、黒川先生自身は大丈夫なのだろうか。善場喜一郎設計事務所はどうなってしまうのだろう……とか。

 しばらく待って、やはり息せき切ってやってきた桜井と小池くん、佐山さんたちが集まってから病室に向かった。善場先生は救急車で運ばれ、緊急手術が行われたが、期待される回復が見えなかったらしい。

 病室に入ると、善場先生はいつもと同じような雰囲気で、眠っているだけのように見えたが、病室の固い床に膝をつくように崩れ落ち、善場先生の左手を両手で握りしめたまま、動けずにいる黒川先生の姿は異様で、そこだけが非日常だった。西川さんが病室から逃げ出してソファーでみんなを待っていた気持ちが分かる。

「遅くなりました……」

 声を発してみるが、その声は静かな病室の壁に何度も反射して、自分の元に虚しく返ってくるようだった。

 当然ながら今は心電図計などのモニターも、呼吸器系の機械も止まっているから、機械音もせず、本当に病室内は静かだった。

 もう旅立ってしまった善場先生に心のなかで「お疲れさまでした。今までありがとうございました」と挨拶し、頭を下げる。きっと善場先生の魂はもうこの身体のなかにないだろうけれど、まだ病室内の天井辺りから、私たちのことを見てはいるかもしれないと思う。

 一人ひとり善場先生の前に立ち、頭を下げ終えると、「とりあえず今日のところは引き上げようか」と桜井が言った。黒川先生一人残して大丈夫だろうかと不安もあるが、この場に大人数で留まるのも違う気がした。

「仕事関係の連絡は僕たちがするので、先生はしばらく善場先生の側にいてあげてください」

 桜井が反応のない黒川先生にそれだけ伝え、私たちは病室を出て、駅に向かった。駅までは歩いて十数分掛ったが、ほとんど誰も話さず、静かだった。

 それから数日。通夜と葬儀はどうにか終えた。

 別れた奥さんは葬儀にも現れることがなかったが、意外にも善場先生のお父様がまだ元気にご存命で、田舎から出てくると、葬儀社を決め、喪主として立派に立ち回った。善場先生の息子さんと娘さんは、葬儀に顔を出し、手を合わせ、お金を置いていったが、それ以上の関りをする気はないようだった。

 私たちスタッフは仕事上で連絡すべき人のリストをまとめ、電話連絡をしたり、向こう一週間の仕事で穴を空けそうなものには謝りの連絡を入れたりした。

 とても慌ただしい一週間だった。

 善場先生のお骨を持って田舎へ帰るお父様を見送ると、私たちは「大変だったね」ともぬけの殻状態になりかけたが、本当に大変なのはこれからだということも分かっていた。

 黒川先生は通夜と葬儀の席にはいたが、葬儀が終わると音信不通になった。事務所にも来ないし、電話をしても出なかった。

「善場先生がいなくなったら、黒川先生がもう代表なのだから、もっとしっかりしてもらわないと困りますよね」

 お客さんとの電話を切り、ため息をついたあと、パートの女性が言った。確かにここは「善場喜一郎設計事務所」という名称だけれど、代表は善場先生と黒川先生になっている。つまり、善場先生がいなくなった今、黒川先生がこの事務所の代表という形になっているのは間違いない。

 ただ、法的にはそうであっても……

「でも、ここは『善場喜一郎設計事務所』であって、『善場喜一郎・黒川祐樹設計事務所』ではないですからね」

 佐山さんが冷静に言う。

「黒川先生が解散を決めれば、解散になります」

 黒川先生が今までの仕事や、私たちスタッフを引き受けて“黒川祐樹設計事務所”を立ちあげる可能性はあるが、そうでない限り、自然な流れでは解散になるだろう。

 通夜や葬儀に来てくれたお客さんには何度も訊かれた。“大変なときに悪いけれど、これから事務所はどうなるんだ?”と。

 羽賀さんのように現在進行形で設計を依頼してくれている人はもちろん、過去に設計を頼んでくれたお客さんや、私たちが普段工事を依頼している業者さんに至るまで、事務所の行く末を心配する人は多い。

 だから、本当はやはり黒川先生が今、はっきり意志を表明すべきなのだ。でも……病室で見た黒川先生の姿を思い出すと、それを望めないようにも感じてしまう。

 と、そのとき、桜井が戻ってきた。桜井は今日仕事前に、善場先生の家に行っていたのだ。きっとそこに行けば、黒川先生を捕まえることができるだろう、と。

「どうだった?」

 私の問いかけに桜井は首を横に振った。何かあったのだろうか、どっと疲れが出たような顔をしている。

「黒川先生、いなかった?」

「いや、いた」

 そう言って、ため息をつく。

「でも、今の黒川先生は黒川先生じゃない……」

 私は無言で頷く。みんなも似たような疲れとあきらめをにじませた顔をしている。

「話、全然できなかった?」

「あぁ、ほとんど。……今は事務所の存続以上に、黒川先生の存在自体が危うい感じだね」

 つまり、自ら命を絶ちかねないということか。

 五年間、理想の上司であり、理想の“大人”だった黒川先生のそんな姿は見たくなかった。でも、黒川先生が善場先生の死から目をそらしてはいられないように、私たちは今の黒川先生から目をそらしてはいけないのだろう。

「とりあえず、今、この事務所を存続させるか、解散させるかを決定できる人はいないと思った方がいいと思う。……それに、解散を決めたところで、当然、今抱えている仕事を急に放り投げるわけにはいかない。だったら、とにかく黒川先生が解散を決めるまでは、できる限り僕たちで、この事務所を存続させて、できる限り、今まで通り仕事を進めていこう」

「そうだね」

 西川さんが同意する。西川さんは、善場先生、黒川先生以外に唯一一級建築士資格を持っている頼みの綱だ。

「事務所のサイトには、善場先生が亡くなったことと、新規の仕事はしばらく受けないこと、既存の仕事はスタッフが責任をもって完了させることを載せておく」

 佐山さんも自分のやるべきことを見つけ、動き始める。私もちょっと気は重いけれど、羽賀さんに連絡をして、当初のスケジュールで工事を進めて良いか確認しよう、と思う。

 そんなふうに私たちは、決して元には戻らない“日常”に戻っていった。

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