過去Diary

書くことは向き合うこと

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 今日は「女神の天秤」(実際に起こった事件について話し合うテレビ番組)を見た。
 
 今日取り上げられた事件は、自分に振り向いてくれなかった女の人を殺してしまった男の人の話。恋愛については語る自信がないので置いておいて(笑)、私の気になったのは、その人は、牢屋にはいるまで、文字の読み書きの能力に著しい欠如があったということ。
 
 しゃべるのはとても上手く、「頭の切れる人」と人に思われているのに、読み書きができない。・・・その番組の中でも、作家の人や、劇作家の山崎哲さんなどが、ものを書くということは、自分自身や、自分の過去と向き合うことだ。それができなかったということは、かなり大きな事ではないか、と言っていた。その言葉は、確かにものを書く者にとっては、なるほど、としか言いようのない、事実の気がしてしまう。
 
 私は、前に少し書いたように、この「日記」を書く前から、自分自身のために日記は毎日書いている。でも、最近、こっちの日記が忙しくなって、自分の日記は空欄が続いた。
 
 そうするとダメだなと思う。自分が今しなくてはいけないこと、自分の思考の整理が全然できなくなって、その時の感情に突っ走ってしまう。箇条書きでも、2,3行でもいいから、一日何か言葉を、自分のために書き留めたい。

 「よるとあさの…」の解説に書いたように、確かにアナログのものである感情を、一つの言葉で括ってしまうというのは怖い。でも、言葉にする、ということは、自分自身の立場を、少し距離を置いてみることでもある。私の場合、日記より、手紙を書いているとき、思いがけない自分の感情に気がついてはっとしたりもする。

 先週イタリアに行ってきたのだけれど、外国に行くと、また新しい「言葉」というものが分かったりする。イタリア語で、感謝の言葉は「グラッチェ」だけれど、本当に相手にお礼を言いたいとき、なんだか「ありがとう」といいたくなる。相手には「グラッチェ」の方が伝わると分かっているのに、自分の気持ちとしては「ありがとう」と言わないと、どうしても自分の思いが表せない気がする。「グラッチェ」では、軽すぎるような気がしてしまう。

「言葉の分からない人には、笑いながら『ばかやろー』と言えば、きっと相手を怒らせないだろう」という実験は、失敗したらしい。人は、言葉に合わせて、どうしても、表情を作ってしまうからだそうだ。
 だから、「ありがとう」は、言葉の意味は通じなくても、気持ちは通じるに違いない。

 人は何のために言葉を話すのだろう、書くのだろう。ふと、そんなことを考える今日この頃。言葉を愛するものとして当然だけれど、でも、言葉のないコミュニケーションもきっと素敵だと思う。本当に愛し合うもの同士は何も言わないでも分かり合える、なんて神話を、私はあまり信じてはいないけれど…。

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