過去Diary

執着というエネルギー

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 今日は、卒論の口述試験だった。あとは3月になって、成績を取りに行き、それで単位が取れていたら、もう卒業式に行くだけだ。私の学生生活もついに終わる。何だか感慨深い。
 
 今日のは試験といっても、ただ卒論の小説の感想を教授に言われただけだった。文章は大分小説らしくなっているから、もしかしたら第1次には(文芸賞の)審査で引っかかるかもしれないけれど、それ以上は難しい、というレベルです、ってかんじの言われ方だった。誉められてるのか、けなされているのか、謎だった…。
 
 ただ、その先生が言いたかったのは、あまりにその文章に出てくる人が型にはまった行動や思考をするということらしい。「優等生の書く小説」というような形容をされた。でも、私もそれはすごく分かった。多分、自分でもそれを書いていて、生温い気がしたから、「欲望」を真っ直ぐに表現している舞踏のようなものに影響を受け、自分を見つめ直し、「バンドエード」を書いたのだと思う。先生も、似たことを言った。「この美抄子さんという人が本当に欲望しているのは何なのか? 主人公の亜紀という人は本当はどうしたいのか?」そういうところの強さや意外性があると、読んでいる人を打つ、と。

 今日、その試験は、10時半には終わった。それから予定のなかった私は、そのまま鎌倉に行った。通学路から1時間外れるだけで鎌倉に着くと言うことを最近発見したから。
 
 カメラを持って、一人でちょっとした「自然」を味わう。最近、一人で歩くことが少しだけ淋しく思えることもあって、生温い人間になったな、と自分を思うこともあるけれど、そういう淋しさもまた生きるためには、人と生きるためには、必要なもの。昔、一人では何もできなかった頃、一人でどこにでも行ける人になりたかった。今、一人で大体のことをできるようになってからは、一人でいる淋しさの分かる人に少しなりたくなってきた。

 私は、ぼんやりと、先生の言った「欲望」について考えて歩いていたのだろうか。それとも、ただ純粋に、それに惹かれただけかもしれない。私はあるお寺の中を歩いていたのだけれど、本当になんでもないようにたっていて、誰の目も別に引きつけていない木に、妙に引きつけられた。
 
 その木は、崖の上に昔は植わっていたのだろうか? その土が地震か何かで下に崩れてしまったらしく、斜めに傾き、そしてその根を、私たちにむき出しにして、たっていた。木の幹は、45度ぐらい、私たちのいる方に倒れてきている。だから私は、その道を通るとき、その木に覆い被さられている気がする。
 
 でも、その木は決して倒れそうもない。その根が、崖の上や下やあらゆる所に、力強く突き刺さり、その木を支えているから。私は崖に近づいてみる。根っこの一部分が、表面に浮き出している。私はそれをつかんでみる。枝分かれした、最後の細いところなのに、それでも私の手首に近い太さがある。私の力では折れそうもない。私は、何だかその根っこから、手を離せなかった。それは、とても強く、厳しかった。
 
 「きちんとあなたに生きる意志がないのなら、あなたのエネルギーも私は吸いとって生き続けます。」
 
 その根っこは、私にそうやって挑んできているようにも思えた。でもなぜかその木は、限りなく優しくもあり、ただ私に、頑張れ、と言ってくれているだけのような気もした。
 
 映画「もののけ姫」の中の、一番印象的な台詞。「生きろ」という、命令文を思い出していた。私は、「優等生」の小説に物足りなさを覚えて、ある「欲望」の物語として、「バンドエード」を書いたつもりだけれど、その欲望は「死」や「破壊」の欲望だった。もちろんそれも、欲望であるには違いない。でも、本当に根元的な人間の欲望。それは「生きる」ということなのだと、教わった、というより、何かしみいってくる気持ちを通じて、私は感じ取った気がした。

 物事に執着することは、格好悪いような気がする。だからついクールな振りをしてしまう。死ぬことなんて怖くない、そう言った方が、みんなにすごいと思ってもらえる。そんなつもりで、事件になっている子供たちは、刃物を振り回しているのだろうか? 何かを強く欲しなくなることが、大人になることのような気がしてしまう。私も。でも、それはただ単に臆病になった印? もっと、生きることに、生に執着するべきなんじゃないだろうか? もっと、多くのものを望んだっていいんじゃないだろうか? 何かに対する執着、欲望こそ、生きるエネルギーなんじゃないだろうか?

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