過去Diary

被害者と加害者

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 今日の「天声人語」は、「酒鬼薔薇」は許せないやつだ、というような内容でした。本当に、人を殺すなんて、許される行為ではありません。特に、この場合、犯人が被害者に恨みがあったわけではなく、被害者が一人の「小学生」であるために、殺されてしまったのです。
 
 昨日の「日記」では、犯人をかばうようなことを書いてしまいましたが、人殺しは、許されるものではない、とだけ補足しておきたいです。…でも、オウムの事件の時に、ワイドショーの「悪」が問題になりましたが、ワイドショーは、たくさんのコメンテイターの様な人がいて、世間の人に合わせた意見を言うから、安心してみられて、人気があるのだ、といわれていました。
 
 殺人があったら、「怖いですね」「許せないことですね」と言わなくてはいけない。「その人にも、何か心の痛みがあったんでしょうね」「私たちも、その人の立場だったら、そうしたかもしれませんね」なんて、人を不安にさせることをいってはいけないのです。
 
 でも、私は敢えて言いたいですね。誰にでも、犯罪者になる危険性はあるのだ、と。人殺しではなく、野村証券のような事件であってもですね。絶対に、その事件で逮捕された人は、子供の頃、まさか自分が逮捕されることになろうとは思っていなかったはずです。
 
 …だからどうした、という感じになってきてしまいましたが、ただ、犯罪者は、法によって裁かれるのです。野次馬根性で騒いで、侵してはならない領域まで、侵しているのが、今のメディアですね。
 
 オウムの事件では、浅原以外の人は、もしかしたら、被害者だったのかもしれない。でも、その信者たちの親にまで、カメラやマイクを向ける。その家庭にはこんな事情があったのだ、じゃあうちの子は大丈夫だ、とでも思いたいのでしょうか? そのとき、その信者の親は、「被害者」でしかないのではないでしょうか? 

 そして、「被害者」が生まれる、ということは、そこには「加害者」、「犯罪者」がいます。それは、私たちなのではないでしょうか。
 
 聖書の中にこんな話があります。ある女の人が姦淫の罪(浮気や不倫みたいな事)を犯した。その罪は、石打の刑になるという掟が、その村にはあった。みんなはその女の人に石を投げつけていた。
 
 そこにイエスが来て、心の姦淫はほとんどの人がしているのではないか、この中に本当に罪のない人はいるか、と聞く。その人だけ、石を投げる権利がある、と。そうするとみんな去っていってしまう。そしてイエスも、「私もあなたを裁けない」というようなことを言うのですね。
 
 裁判官は、確かに人を裁いています。でも、それは個人としてではない。過去の集大成として作られた「法」によってです。その存在も、矛盾しているのでしょうか? でも、誰かが裁かなければいけない。機械が裁く? それはもっと危険に思えますね。…またまた混乱してしまいました。
 
 でも、自分の存在や、正義のようなものの不安定さは、心に留めておかないと、人を裁けるような人間でもないのに、そうであると勘違いして、人を傷つけてしまう。被害者を増やしてしまう、そんな気がしたのです。

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