過去Diary

そのときの私

 今日は久しぶりに写真の整理をした。私はデジカメは持っていないから、ホームページに載せている写真は全てフォトCDにして取り込んだものなのだけれど、いちいち店に持っていくのが面倒くさいのと、書き込み1回につき500円だから、ついもうちょっと溜まってから、とけちくさく持っていくのを先延ばしにしてしまうせいで、気付いたら、このページの写真も8月ぐらいで終わっているし、まだ夏の写真もかなりフォトCDにされないまま眠っていた。
 
 ということで、私は自分で撮ったことも半分忘れているような写真を今日はながめていた。
 
 夏から秋になり、冬が来た。そして今、この寒さのなかでも、よく見ると、よく感じとろうとすると、春は土の中、木の奥に眠っている。時々それが、水仙や梅の花という形をとって私たちに存在をアピールしている。そんな気がする。
 
 夏は強い光の中、秋や冬は優しい光の中、いつでもなんだかの花が咲いていて、いつもちょっとずつ違った顔をする空が見える。そんなたくさんの写真を見ていると、自分たち、と言うか、人間というものは、いつも何かに本当は守られているんだな、という気がする。
 
 落ち込んでいるとき、傷ついたとき、ふとどこかにカメラを持って出かけたり、絵を見に美術館に行って、ぼんやりとしていたりする。私の見た、いつか誰かの見た風景が、私の心を包み込んで、そっと癒してくれる。
 
 就職したら、そんな悠長に、散歩している暇はなくなるかもしれない。ちょっと不安。でも、だからこそ今、色々なところに行って、色々な物を見て、記憶をたくさん保存しておこうと思う。

 ある時どこかで見た風景。その時の何気ない光の射し方が、今でも自分の心にしっかりと刻み込まれていたりする。
 
 昔撮った写真を見る。昔見た景色と似た場所を通りかかる。その時、その風景と結びついたその時の気持ちがよみがえる。元気に、歌いたい気分で歩いていたときに見た風景も。泣きたい気持ちを抑えて、じっと見つめ続けた風景もある。

 その時思い出すのは、凝縮された、自分の過去の思い出。凝縮されているせいで、何だか私は一時間泣いたと思ったら、すぐ次の一時間には笑っているような、そんな人間であるかのような気がしてしまう。そして、そんな自分を思うと、私は結構一生懸命に、「生きて」いるんだな、という安心感が生まれたりする。その一時一時、苦しんだり悩んだからある今の私がいる。
 
 今、タイムマシンを作るというような、SFの本を読んでいるけれど、私は未来のことは何も知りたくはない。そして、過去の自分に、それからおこること、その時選んでおけば良かった道を教えたいとは決して思わない。そこを変えることで、例え今の私が、今よりいい状況になるのだとしても。
 
 その時その時、「今」を見つめて生きてきたから、後悔しない。そして、だから「今」、「今」の私を信じられる気がする。今も、ちょっとしたことではあるけれど、悩んでいる、と言うか迷っていることがある。でも、悩めるときに、悩むべきだよね、きっと。目を逸らさないで、逃げないでいたい。未来の私が、その時の私を信じられるように。

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