過去Diary

リンゴジュースを作ろう

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 昔の日記で、SMAPの「セロリ」の歌詞はいいということを書いたけれど、今度シングルもなかなかいい。
 
 表は「夜空ノ向コウ」そして、裏は「リンゴジュースを作ろう」という曲。

「リンゴジュースを作ろう」という曲は、昨日初めて聞いたけれど、なにげにメッセージ性に富んだ曲だ。

 歌詞は正確には覚えていないけれど、「こんな小さなナイフじゃ、今時誰も脅せない。君の話が本当なら、皮をはぐようなナイフがいい。でも大丈夫、君には必要ない。そのナイフでリンゴジュースを作ろう。それ振り回すのはあまりにNo Futureだ」というような内容。

 最近ナイフで高校生や中学生が人を傷つけるという事件をよく聞くけれど、それはSMAPの木村拓哉が「ギフト」というドラマでナイフを振り回していたシーンが格好良くて真似したのではないかとか言われている。キムタクにしてみれば、迷惑な話でしかないだろう、と思う。……この曲を聴いた高校生たちが、すぐにナイフを持ち歩かなくなるかは分からない。でも、きちんとキムタクにこういう曲を歌わせる姿勢は、評価してもいいのではないかな、と思ったりした。

 今日、私のページを見て下さっている人からメールをもらった。日記や「バンドエード」には「生」と「死」についてなど書かれているけれど、最近のナイフを使った事件をあなたはどう考えますか、と。
 
 その方はこうメールに書いていた。

—-
 先日の生徒が先生を刺してしまった事件はショックでした。酒鬼薔薇事件の後、TBSのニュース番組で高校生を集めて討論会をやったんですよ。そこである少年が「なんで人を殺して悪いのか分からない」と言ったんです。私はその意見がその日一番良い意見だと思いました。でも番組の大人たちはそれをちゃんと受け止めなかった。これこそが最大の過ちだと思いました。
 
 私は思います。「死」とはすぐ隣にあって、実に簡単にやってくるものだと。だからこそ「生」が愛しいのだと。少年たちは「生」の愛しさを実感できないから「死」をもってそれを実証したいのではないかと。
—-

 私は4月から塾の先生になるというのに、あんまりまじめに事件のことを考えていない。こうやってメールをもらうと、何だか自分がすごく不真面目に生きている気がしてしまう。

 でも一つ自信を持って言えることがあるとしたら、私はこの4年近く個別指導塾でバイトをしてきたけれど、その時に私が担当してきた20人ぐらいの生徒は絶対にそんなことはしない、ということ。その子たちを見ていると、控えめながらも、何か夢を持っていたり、今したいことを持っていたり、それか今は何も分からなくても、真剣に自分を見つめようとしている姿勢が見えたりした。

 私にはだからそういう事件になる子供たちのことは分からない、と言ってしまえば、きっとそう言うことになるだろう。でも、結局こういう事件について語っていると、「子供」という概念だけが存在して、一人一人の子供が見えなくなってしまう。「今の子供の考え方」とか言わないで、自分のそばの一人一人を、みんなが見ていればそれでいいんじゃないだろうか?
 
 メールを下さった方も、「生の愛しさを実感できていないからなのではないか」と書かれていた。私もその意見には賛成だ。でも、その「生の愛しさ」を人に与えられるのは、その人の周りにいる、ごく限られた、友達や家族、知り合いなどでしかない。国やマスコミが動いて作れるものではない。

 私も高校時代とかもっと若かった頃(?)は、何かに躓いて悩んで、死んでしまいたいと思ったことがないとは言えない。でも、一度「死にたい」と思ったとき、なぜか自分の葬式のシーンが浮かんだ。親が泣いていた。友達が何か私を誉めるようなコメントをしていた。そんな想像だけで泣けてきてしまって、もう死にたいという気持ちなんて吹っ飛んだ。

 自分のために泣いてくれる人がいさえすればいい。そう言ってしまうのは、たくさんの事件を見ていると、簡単すぎる気がする。でも、結局は、それだけなんじゃないかな。人に必要とされているという気持ちさえあれば、人は自殺も、人殺しもしないで生きていけるんじゃないかな。自分に価値を見いだせれば、同じ価値が人にもあると考えることが次第にできてくる。だから人殺しが悪いと言うことが分かってくる。 だめだな、これは「優等生の作文」の域を全然出ていない。こんな「優等生」の考え方じゃ、きっと子供たちの気持ちなんて分からないんだろうな。……

 話は少し逸れるかもしれないけれど、昔、私はすごい自信過剰な人間で、自分は人と違う選ばれた人間なのだと考えていた。でも芝居で挫折し、自分も人と同じなんだと気付いたとき、何か「大きなこと」をするのではなくて、ただ自分のすぐ側にいる人に、できるだけのことをしたい、と思うようになった。
 
 40歳ぐらいの知り合いの人が、私のことを何だかとても評価してくれているのだけれど、この間、「塾の先生なんて、あなたでなくてもできる人はたくさんいるんだから、もっとあなたにしかできないことを捜すべきよ」と言ってくれた。でも、私はそうは思わない。確かに他の人にでもできることだろうとは思う。でも「他の人にもできるから」と思っている限り、結局何もできないと思う。
 
 今私がここにいるからできること。それはもし他の人がここにいたら、その人にもできることかもしれない。でもその人は今ここにはいないからできない。それなら、今ここにいる私が、今ここでできることを喜んでするべきなのではないだろうか。
 
 小さなことでもいい。朝会った人に挨拶するとか、赤ん坊を抱いたお母さんに電車の席を譲ってあげることとか、前を歩いている人が落としたハンカチを拾って届けてあげることとか。それだって、人を明るくさせられることだし、そう言うことをできた私はそこにいる価値があったわけであり、生きている価値があったことになる。

 そんな生き方を、そんな考え方を持って、私は生きたいし、自分の生きる意味について悩んでいる生徒がいたら、そんな小さな幸せについて話してあげたい。そういう小さな幸せを本当に感じ取られるようになるのは、もっと大人になってからかもしれない。でも、それでもどこかには残るはずだと思うから。……まぁこういう話は、きちんと信頼関係を築けていないとしても仕方ない話だけど。

 まとまりがなくなってしまったけれど、これが一応私の「生」と「死」についての考え方かな……。

 好きな人ができると、人間ちょっと臆病になる。死にたいする恐怖が増えるから。そんな気持ちを大切にしたいな。

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