過去Diary

教会と神

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 教会。ヨーロッパの教会はやっぱり美しい。絵画や彫刻の立派さはもちろんだが、やっぱり教会をあそこまで荘厳に見せているものは、天井の高さと、その中の冷たい空気の気がする。6年間、キリスト教系の学校に通って、そういう精神が自分の中に身に付いているからかもしれないが、教会にはいると、気持ちがしゃんとする。自分を小さく感じる。自分は、罪人であると感じる・・・

 でも逆に、遠藤周作の気持ちも分かった。遠藤周作はクリスチャンだが、その信じる神、キリストというのは、とても弱く、何の力も持たない。西洋の人には、遠藤周作の言う神は神ではない、遠藤周作はキリスト教者ではない、と攻撃もされているようだが、日本人には、「絶対的な力を持った神」というものは、なじめないものらしい。日本の文化を勉強している友達が言っていた。

 私は、その友達には反対だった。私はクリスチャンではないし、特定の宗教は持っていないけれど、何か絶対的な「運命」というものを信じている。いいことをすれば、いいことが起こるとか、たとえ悪いことが起こっても、それは必ず自分にプラスになるために起こされたものだとか・・・。

 私は多分これからもそう考えて生きていく。そうでないと、生きることは苦しいから。
 
 でも、その一方で、人間の弱さのために、自分も苦しんでいる、神というものも見える気がする。「主はいつもあなたのそばにいます。そして苦しんでおられるのです」自分のことを「罪人」と感じたとき、そんな言葉が聞こえたように思った。
 
 高校時代、讃美歌の532番が好きだった。「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも、現世にあらじかし、いずこにもみあと見ゆ。昼となく、夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき交わりよ。」でもこれは、死んだ後は、この世では得られない「関係」を主と結べるという歌だと知った。人は生きている限り、完全に精神的な存在、形而上的な存在のみとしては生きられないのだろう。この世では主と結ばれ得ない・・・きっと。

 よく分からない、私にも。混乱している。でも、教会の中、大きな力を感じ、私は生きている間は、人として、人と共に生きなければ、と思った。そんなことだと思う。

(一応書いておきたいのですが、「神が人を作ったのではなく、人が神を作った」という意見もあるでしょう。私はそれも正しいと思います。なぜなら、神を信じる力は、神ではなく人が作るものだからです。・・・教会の壮大さは、逆説的に、そのような物理的、現世的美しさや立派さを持たないと、神の力というのは信じられないものだ、という、神の非存在を示していはしないだろうか・・・)

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