過去Diary

自分と世界の距離

 家の裏の方に、運河のような、小さな川が流れている。私は体を動かしたくなると、そこに行って、2キロぐらい走る。気持ちを落ち着けたくなると、その運河に沿った散歩道の終点まで行ってぼんやりと川とか、走っている人とかを見ている。
 
 全然きれいな川ではなくて、その水はかなり濁っている。だから、重たい悲しさを一緒に分かち合える気がするのかもしれない。
 
 その運河にある一番強い思い出は、涙が出そうに苦しくなるまで走った時のこと。一つ目の劇団を辞めたあと、その劇団のものすごくつらい稽古がないと何だか自分がどんどん落ちていってしまう気がして、次の劇団も見つかっていないくせに、体力づくりだ、と走っていた。一緒に走る人がいないその自主トレは、ものすごくつらかった。

 去年になって(つまり2年経って)、その運河に行ったとき、やっと、その時頑張っていた自分が、すごく愛おしいと思えるようになった。落ち零れていた自分、それをその時の自分は許せなかったけれど、それでも一生懸命に頑張っていたのだと2年経って、自分をやっと認められた。

 この頃思うのだけれど、成長というのは、自分と世界の距離が広がっていくことなのかもしれない。昨日は「過去」のことについて書いたけれど、過去は離れているからどこか冷静に分析したり、悲しいこともバカな失敗も、温かく思えたりする。
 
 それと同じ事が、現在にも少しは言えるかもしれない。それこそ「過去」とか「経験」が増えるからかな。例えば、悲しみの中にいるとき、今までの悲しみの数が多ければ多いだけ、それから立ち直って、その悲しみを「思い出」として見返してみたときの経験が増える。そういう経験が多いと、悲しみのただ中にいても、何ヶ月とか、何年とか経ってから、今の自分を振り返ると、その時どういう気持ちになるのか想像しやすくなる。だから、「現在」も、「過去」のように、少し離れて見ることができる。

 2歳年上の友達が、「年をとるにつれて、一つずつ感情がどうでも良くなっていく気がする」と言っていた。私の言っているのもそれに近いのかもしれない。でも、感情がどうでも良くなるのは、悲しすぎる。くだらないことに、きちんと一喜一憂できる精神は保ち続けたい。

 よく分からなくなってしまった(^^;) でも、ただ、成長する、年をとるというのは、長く生きること、思い出の数を増やすこと。無駄に時間を使いたくはないですね。くだらない大人にはなりたくない。(って、22歳はもう大人?(笑))

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