塾で働いているというと、生徒に教えるだけしか仕事をしていないように思われるようだけれど、私は毎日代々木にある本社に行って、自分の仕事をして、それから自分のその日に持っている授業に間に合うように代々木を出て、週3日は三鷹に、残りの一日は藤が丘、もう一日は藤沢に行っている。代々木での仕事は、多分他の会社の人たちがしているような「仕事」に似ていると思う。自分の分担の仕事があって、それを期日までにこなす仕事。
今私が代々木でしているのは、作文の通信関係の仕事。作文のテーマを作ったり、生徒との手紙のやりとりをしてくれる方を探して(探すのは私ではないけれど)、その方と連絡を取り、文通の媒介をしている。いちいち全部の手紙を読んでいる暇などもちろんないけれど、生徒やその仕事をして下さっている方がどのような人なのか始めに把握するために結構多くの手紙を読んでいる。
私も最近は忙しくて手紙を書かなくなったし、一年前は珍しくてやたらと書いていた電子メールもこの頃はほとんど書かない。とくに、手紙や文字だと自分でその言葉に酔ってしまう部分があって、格好いい文章を残すために本当に伝えたいことと違う内容の手紙を作ってしまうということもある気がするから、この頃。
だからできれば伝えたいことは相手に直接言いたい。でも、やっぱり手紙の方が素直になれるということがある。こんなにパソコンが普及した世の中では、肉筆に触れるだけでどこか安心感もあるし、自分の文字を見ながら文章を書く方が本当は気持ちが開くような気がする(だから小説は面倒でもまずシャープペンで書いてから打ち直す)。
時々は誰かに手紙を書いてみよう。しばらく連絡を取っていない、でも今でも大切な友達に。電話よりも優しく訪れる手紙を、忙しそうな友達に。
それから、私の仕事としてもう一つ、その手紙を書いてくれる方の「自己紹介文」をワープロの原稿に直して生徒に送るという仕事もある。内容はとても素晴らしく、視点もいいのに、文法がメチャメチャだったり、文章の構成が効果的でないと思われるものを、任せてもらっているのをいいことに、自分の好みの文章に変えている。
やっぱり、本当に伝えたいことを正確に伝えるためには、道具が必要だ。日本語の文法であったり、時には綺麗な文字であったり……。ということで、あまりに文法がひどかったり、字が汚かったりすると、ちょっとイライラしてしまうのだけれど、でも一人一人の生き方や価値観が伝わってくるその「紹介文」を読むのはとても楽しくて、自分も仕事ではあるけれど、人生の「勉強」をさせてもらっている。
その中の気に入った文章をここで取り上げるのは職権の乱用だろうか?(^_^;) でも、最近いいな、と思った文章の一部を。
『聞こえるのは自然の音色だけ。ゆっくりと時間の流れる山奥に、山の学校を作るのが私の夢だ。
勉強はしない。その代わりテレビゲームもない。あるのは、人と自然、ささやかなお茶とお菓子。
この学校は休むための学校だ。社会生活になれない、なじめない、自信がない……いきづまったときに、自分の殻に閉じこもるのではなく、違う心の居場所を提供することが学校の大きな目的だ。
一人で空を眺めるもよし、畑仕事をするもよし、自分に自信がつき、また社会で生きていける気持ちがめばえたとき、卒業となる。
私の考える卒業の目安は、「あー、このお茶とってもおいしいね」と、心から喜びを表現できたとき。 (以下略)』
人はよく「幸せになりたいな」と思う。何か目標を持ったりする。「幸せ」が何かある特定のことでしか得られないような気がしたりする。でも、そんなことないのかもしれない。ちょっとだけ周りを見回してみればいい。それだけのことかもしれない。
今度流れ星がたくさん降る日が来るらしい。あなたはどんな願い事をするのだろう? 私は?と考えてみる。でも結局「幸せを」としか願えないと思う。神社やお寺にお参りに行っても、それしか言えない。「幸せ」になるのが誰かのかもはっきりさせないで漠然と願ってくる。……昔はもっとはっきりした夢を持っていた。有名な役者になりたい、とか。
ある本で読んだ。流れ星に願い事をすると叶うというのは、流れ星を見てすぐに出てくるような具体的な夢を持っているということだから、それだけいつも考えている夢なら叶う、ということらしい。なるほどなぁ、と妙に感心した。
運命に身を任せて、それを全て受け入れてしまうというのは卑怯なのだろうか。でも、今望んでいることが叶っても、本当に幸せになれるか分からない、そうこの頃思ってしまう。自分の望んでいることと逆に行った方が結局自分も他の人も幸せになれるのかもしれない。
他の本で読んだ。「何をするかは選択ではない。選択とはその与えられたものの中で楽しく生きるかつまらないと思って生きるかの選択しかない。」今はこの言葉が好きだな。
10月から部署が異動するという話だったけれど、その話はとりあえずなくなり、私はこれからも文通のお手伝いをしていくことになるらしい。異動するのも楽しみだったけれど、残れるのならやっぱり残りたいな、という気持ちになっている、今は。
大切なのは、楽しいとか嬉しいとか悲しいとか苦しいとか全ての感情を感知する感性のようなものを失わないこと。きっと、それだけでしょ? そして、器を広くしたいな。「ここからここまでが私にとっての幸せ」という基準があるのなら、その基準をできるだけ広げたい。