邦画

『万引き家族(是枝裕和監督)』:カンヌ映画祭パルムドール

是枝裕和監督の『万引き家族』ようやく見に行けた。

事前に「救いがない映画」と聴いていて、確かにラストはハッピーエンドではなかったけれど、「後味が悪い」わけではなく、見てよかったと思える映画だった。

『万引き家族』あらすじ

 

この映画の内容は簡単に言うと、血のつながりのない五人の疑似家族の話。

  • 夫に捨てられたものの、古い一軒家に住み、家と年金収入はあるおばあさん
  • 日雇いで工事現場などで働く父親的存在の男性
  • クリーニング屋でパート勤務する母親的存在の女性
  • 一見清楚に見えるけれど、実はH系の店で働く20代の女性
  • 小学校に通っていない10歳くらいの男の子

 

最初、男の子が父親的男性の指示のもと、スーパーで万引きを働くところから始まる。

それもとても手馴れた様子で、万引きが彼らの日常なのだということも分かる。

 

その万引きの帰り道、アパートの外で泣いている5歳の女の子を見つけ、お腹を空かせている様子を見かねて、2人は家に連れ帰る。

そして6人で鍋を食べ、翌日、そっと女の子を家に戻そうとするが、母親的存在の女性が、「帰したくない」と止める。

女の子が親から虐待を受けていることを、手の傷から気づいた女性は、自分の境遇と女の子を重ねたようだった。

……というところから始まる物語。

 

その後、5歳の女の子の行方が分からなくなっているとニュースで報道されたり、おばあさんが亡くなったり、「今の生活」を脅かす出来事が起こるけれど、5人(+1人)は、今の生活を続けていくことを選んでいく。

 

でもそのなかで、今の生活に疑問を感じた男の子が、その生活を壊すための行動を起こす。

そしてバラバラになる「家族」。警察によって、一人ひとりにつきつけられていく、「他の家族」の過去。

それでも他の5人を本当に今でも「家族」や「大事な人」と思えるか。みんなそれぞれに、問いを突きつけられていく。

 

社会的なテーマをフィクションにする意義

 

こういう映画の感想として「色々考えさせられた」というものが、一番多いように思う。

でも「色々考えさせられた」という言葉は、結局、それ以上思考を深堀することは止める。

なんか考えた気分になって、結局みんな、なにも考えずに日常に戻る。

 

こういう映画は普通、一人で見るのだけれど、今回は珍しく旦那と見た。

旦那は基本、エンターテイメント系の映画しか見ない人(普段一緒に見に行くときは、エンターテイメント系の映画を見て、私の方が消化不良になっていることが多いかも)。

 

その旦那は、この映画の感想として、こう言っていた。

「よく考えられたいい作品だということは分かる。

でも、こういう映画を作ることで、誰がどう得をするのかが分からない」

……なるほど。

 

小さな子供が虐待される事件は、現実にもあふれている。でも現実の事件を見ても、具体的にこの現状を変えるためにどうしたらいいかを考え、行動に移せる人なんて、本当にわずかだ。

フィクションの世界の「大変さ」を見たところで、人はすぐにそれを忘れてしまう。

 

ちょっと話は変わるのだけれど、少し前、窪美澄さんの『さよなら、ニルヴァーナ』という本を読んだ。

読み始めてから知ったのだけれど、神戸の「少年A」(酒鬼薔薇)の事件を扱った小説だった。

 

「少年A」自体の視点と、「少年A」に娘を殺された母親、「少年A」をアイドルのように慕い、追いかける少女、「少年A」について小説を書きたいと事件を追いかける小説家志望の中年女性の4つの視点から物語が展開する力作。

 

小説だから、フィクションの部分も多いのだろうけれど、この小説を読むことで、テレビ・新聞の報道では何度も何度も触れた事件が、二次元のものから、三次元、四次元に立ち現れてくる感覚を覚えた。

 

世の中に、もっと深刻な事件が溢れていても、社会的な出来事をテーマに小説なり映画なりを作る意味は、やはりその「三次元、四次元にする」ことにあるのだろう。

そうすることで、人は、事件の報道よりも深く、出来事を胸に刻む。

 

個人的に感じたこと

 

今回の映画、旦那の感想としては、

「結局、リリー・フランキーが演じる男性(父親的男性)が全部の発端だったってことだよね。

世の中には心の弱い人もいるからね」

だった。

 

えー、そういう感想なんだ?! と結構、びっくりした。

 

確かに、男の子や女の子を「可愛そうだから」と拾ってきたはいいけれど、まともに養育できるわけでもなく、万引きを覚えさせ、それで暮らしていく、というのは、社会的に正しいことではない。

 

それに、リリーさん演じる男性は、学歴がないという意味ではなく、生きる知恵・常識がないという意味で、賢さに欠ける。賢ければ、もっといい方法を思いつくだろう。

 

でも、賢い人間は、「可愛そうだから」という理由で、人を家に連れてきて、住まわせようとはしない。

 

結局、親から虐待を受けていた少女は、事件の後、親の元に返されるのだけれど、彼女はきっと国からも、日本の福祉からも救ってもらえない。

制度には落ち度がある。

 

その欠けているものを埋められるのが、賢さではない、「人らしさ」だ。

 

だから、制度からはみ出す気概と、制度からはみ出ても自分の生活を自分で組み立てられる能力と賢さ、その両方を兼ね備えた人が世のなかには必要だ、と。

 

私はそんなふうに考えたのだけれど……

本当、受け取ることは人それぞれなんだな。

 

そして、フィクションを作っているものとしては思う。そういう多面的な作品を作れる是枝監督の才能って、素晴らしい、と。

 

設定は本多孝好『at Home』に似ている

 

是枝監督が本多さんの本を読んだことがあるかどうかは知らないけれど、設定は本多孝好さんの『at Home』にすごく似ているな、と思った。

 

でも、『at Home』は、最後に「本当の家族じゃない」というのがどんでん返しのネタになっているし(超ネタバレでごめんなさい……。ネタバレついでに書くと、この一家は泥棒家族で、泥棒に入った家で虐待されていた子供を救い出してきたその子が「息子」になって、今は泥棒として父親と一緒に活躍している、という設定。母親は結婚詐欺師として生計を立てている)、すごいエンターテイメントの作品。

最後に犯罪者とのバトルとか、撃ち合いとかあったり。

 

でも本多さんの本来の良さって、もっと静かに淡々とした日常のなかでの「どんでん返し」だったから、「設定はいいんだけど、ラストがわざとらしくて、残念だな……」という感じもあった。

 

だから設定はすごい似ているのだけれど、エンターテイメントではなく、静かな「ドラマ」として、淡々とした世界観で作品を完成させている『万引き家族』はすごいな、と思った。

 

よく小説の世界では「もうすべての物語は書き尽くされている」と言われる。

どんな物語も誰かしらは書いてしまっている。でも、同じストーリーでも、きっと、書く人が違えば、全然違った物語になる。

今回の映画鑑賞を通して、そんな可能性も、勝手に感じたりした。

 

★まとめ

 

ということで、いろいろな方向に話はずれ、長くなったけれど、「いい映画だったかどうか?」訊かれたら、「いい映画だった。是非見に行くべき」と答えたい。

脚本や演出も素晴らしいし、役者もいい。

 

是枝さんの作品は、メジャーな人をあまり使わない分、本当に上手い人だけ出ていて、それがまた、世界の信ぴょう性を高めているな、と思う。

私は見ていないけれど『空飛ぶタイヤ』は役者がいまいちらしいので……それと比べても(笑)
(『空飛ぶタイヤ』は小説はいい! 池井戸さんの作品の中で一番好きだな)

 

まだしばらく上映は続くと思われるので、時間がある人は是非、映画館で見てくださいね。

-邦画
-,

© 2024 凪 Powered by AFFINGER5