和歌山県の自殺名所のそばで教会の牧師をされている藤藪さんという方と、その方が行っている自殺志願者の支援活動についてのドキュメンタリー。
色々考えさせられた。
まさかのラストに心がついていかないうちに明かりがつき、あせる(^^;)
Contents
藤藪さんの行っている「自殺志願者支援」
藤藪さんの活動は、随分前にテレビで見て、「こんな活動をしている人がいるんだ」と衝撃を受け、かなり鮮明に印象に残っていた。
自殺志願者の支援というのは、簡単に言うと、こんな感じ。
- 観光名所でもあり、自殺の名所でもある和歌山県の三段壁に「いのちの電話」という看板を設置し、死ぬべきか迷っている人に「教会に電話してきて」というメッセージを伝える
- 電話を受けたら、公衆電話まで車を走らせる
(無言電話であっても、かけた人を探しに行く) - 電話をくれた人を見つけたら、死に急がないように話をする。場合によっては、警察にも協力を頼む
- 相手の同意が取れたら、教会に併設されている(?)宿泊所にその人を泊める
- 相手が落ち着いたら、今後について話をする。
(そこで家に帰る人もいれば、教会に残り、集団生活を送る人もいる) - 集団生活を選んだ人には、徹底的に関わる。
頻繁に面談し、今後についてや解決すべき問題について話し合う
以前、テレビで見たときは、ここまでだったのだけれど、映画はさらにそれから何年か経った頃に撮られたようで、
- 仕事をする意欲はあるけれど、働く場所が見つけられない、もしくは、まったくの外で働く勇気はまだ出ない、という人が働ける「食堂」を運営する
というステップまで加わっていた。
「牧師だから」「クリスチャンだから」「神の愛を信じているから」なんて言葉だけじゃ語れない、すごい活動で、この活動を始め、続けられている理由は何なんだろうな、と、とても知りたくなった。
救えない命も
藤藪さんはすでにこの活動で900人以上を救ったという話だったけれど、救えない命もある。
救ったように見えても、本当にその人が救われたかは、その人が病気や事故など、自殺以外で命を落とすまで、分からないのかもしれない。
ネタバレになっちゃうので、下記の一行だけは白い字にするけれど(選択して、反転させると読めるはず)
映画のなかで、とてもいい感じに立ち直ってきていたように見えた三十歳くらいの男性が、藤藪さんのところを出て故郷に戻ったあと、藤藪さんには連絡をせず、自殺してしまった、というケースもあった。
でも藤藪さんの、そんな「完璧じゃなさ」とまっすぐに向き合いながら、今できる最善に向き合おうとする姿勢が、ただただすごかった。
人として生きるとは?
お金の使い方に問題があり、自殺しようというまで追い詰められた人も多いようで、きちんとお金を使えるようになるまでは、お金も全部預かるとか、
一人ひとりとミーティングの機会を頻繁に持ち、「そこがお前の弱さなんだよ。そこを直さない限り、何も解決しないんだよ」と叱るとか……
熱いっていうのとは違う。
藤藪さんは冷静だし、映画も本当に淡々と進む。
でも、「他人」にここまで踏み込んで、生きている人の姿に感動した。
「人間は人の間に生きて初めて人間になる」とか
「人という字は、人と人が支え合っている形」とか簡単に言うけど、
本当に「人間」として生きるってどういうことなんだろう、と考えさせられた。
人には人を救う力がある?
ここ数年、自分の心とまっすぐ向き合い、結局自分のなかにしか、答えも光も力もない、と痛感する日々。
スピリチュアル系の発信をしている人の多くも
「人を救う力ないんて、誰にもない」と言う。
結局、その人のなかにしか、答えも、光も、力もない。
でも、そう言いながらも、「人を救う力なんてない」という人の発信によって、本当の自分を思い出し、救われる人もいる。
「自分は人を救える」なんて考えるのは、多分、とてもおこがましい。
でも、「あくまで答えと光と力を持っているのは相手」と信じた上で、必要としている人に手を差し伸べることは、人間として、やっぱりするべきことだ、と思った。
……この映画の感想をまとめると、そんな感じかな。
→ 『牧師といのちの崖』オフィシャルサイト