過去Diary

弱さをさらす

 物事が、空回りしている。自分を嫌いになる。そんなとき、どうしたらいい? 何もしないで、時の過ぎるのを待つしかないのだろうか? それとも、自分が嫌いだと思う暇もなく、とになく何かをしていればいいのだろうか?
 
 この一週間はバイトもなく暇だった。同じバイトをしていたのだから、去年もそんなときがあった。でも、去年はその時期を使って、ボランティアをしていた。
 
 去年の日記を見る。小さな字でびっしり、世の中に対する問題意識、自分の担当している生徒への気遣いが書かれている。
 
 それも、同じ「私」。誇ることのできる、そして、人には謙遜しなくてはいけない「私」。でも、同じ自分のように何故か思えない。過去の自分に、私にもこんな力がある、と励まされるときもある。でも、ただ、重荷に思えるときもある。自分が、自分を規定していく。経験が、自分の判断を狭くしていっている。そして、過去の重さが、変化を躊躇させる。

 私の弱さ。人に見せるのもだから、この「日記」には、できるだけ肯定的なことを書こうとはする。三島由紀夫は、自分の弱さを人に告白するのは無礼だと書いていた。
 
「我々は自分の弱さをいやがる気持ちから人の長所を認めるのに、人も同じように弱いと言うことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります」

 そのエッセイの始めは、「一切合切自分のことをさらけ出す人は、他の怒りを買うものだ。さほどに裸体は慎むべきものだ。そうだ、君らが神であってはじめて、君らは君らの衣服を恥じて良かろう」という、ニーチェの言葉だ。
 
 確かにそうかもしれない。でも、弱さを見せあえない友達なんていらない。三島はこうも書いている。「どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿まで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめかかった考えです」

 弱さがあるから、人を本当に愛おしめるのではないか。そして、人それぞれ、いいところと悪いところが違うから、世の中の人全てが一人の人を好きになったりはしないのではないだろうか。

 落ち込んだ人を目の前にして、自分の失敗談を恥じることなく語れる人でありたいと思う。自分の弱さから脱却するためには、まずその弱さを見つめることによってなのではないだろうか。自分の弱さからも、人の弱さからも、目をそらさないでいきられたらいい。

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