気付いたら、23歳が目の前に迫っていて、気付いたら、23歳になっていた。
何だか、ちょっと感傷に浸っている。
誕生日の3日前、「22歳、季節がひとつ過ぎていく」という本を見つけて、思わず買って、読んでしまった。作者は、コバルトの賞をとったことのある人のようで、純文学というよりは、恋愛小説だけれど、22歳の私には「分かって」しまう部分があった。
作者である唯川恵は、後書きにこう書いている。
「22歳という年齢が好きです。
思い出すと、その頃の私はもう人生のほとんどを生きてしまったような気持ちになっていました。
一生懸命何かに打ち込むとか、大恋愛するとか、そんなことに虚しささえ感じていたような気がします。
今になってみると、どうしてあんな世捨て人みたいなことを考えていたのか不思議でしょうがないのですが、その時はまじめでした。
22歳は少女ではありません。
失恋も挫折も知っています。世の中の仕組みや矛盾にも気がつきました。笑顔の裏にある哀しさや、涙は目からだけあふれるものではないということもわかりました。
けれど「女」と呼ぶにはまだ未完成です。
心にも身体にも、青い部分をたくさん残しています。
生きることに中途半端だったのです。
でも今は、あのことが懐かしく愛おしい。
もっとひたむきに生きればよかった。もっと熱く人を愛すればよかった。
こんな風に、気づくのはいつも過ぎ去ってからです。」
そして、解説を書いている光野桃という人も、書いている。
「自分を守ることを考えず恋に向かえるようになったのは、もっとずっと大人になってからではなかったか。
大切な物が何かを知り、それと巡り会うことは人生のうちでそう多くないのだと分かったとき、欲しいものを手に入れるために傷つくことを怖れなくなった。
22歳のときの私は、与えてもらうことばかりを考えていたのではなかったか。何もかも分かったような顔をして、斜に構えていたのではなかったか。」
生きることを、ばかにしちゃいけない。でも、確かに、今の私は、分かったような気でいるな。色々なこと。私も、今を振り返ったとき、こんな思いになるのだろうか。なんて偉そうなこと、ここに書いているんだろう、と思うのだろうか……。
今、失ってはいけないもの、どんなに格好悪くあがいても、手に入れないといけないものって、何なのだろう。でも、もしかして、一番手に入れないといけないのは、そこで一生懸命にならなかったせいで、何かを逃すというある苦い経験なのかもしれない。二人が書いているように。何かを失ってしまったとき、自分にそういいきかせれば、気持ちはまた楽になるだろうか。いや……でも、失う前から、失うことの理由づけをするなんて、やっぱり卑怯っぽい。
ただ、本当に身に染みて感じること。
生きている年月が長ければ長くなるだけ、人を信じることが、難しくなる。
でも、だからこそ、人を信じられそうになる経験をしたときの感動は大きいし、いくら傷ついても、めげずに人を信じてしまう自分に出会ったとき、そんな自分が限りなく愛おしくなる。
今、火曜日の夜9時から放送されている、織田裕二と香取伸吾が出るドラマが好きだ。一つ目の理由は笑えておもしろいからだけど、もう一つの理由は、何かを信じることのエネルギーみたいなものを取り返せる気がするから。
東京に出てきたばかりの、織田は、香取にお金をだまし取られる。そのお金を返すと言われ、またまた引っかかってしまう。でも、織田は香取に一度、「お前の言うことを信じるよ」という。だから、2度目騙されても、「お前のこと信じるって約束したから、人になんと言われても、俺はお前を信じる」という。香取は、次第に、織田の信じるように、いい人になっていく。
騙されたとき、「もう絶対二度と信じない」と言うことは簡単だ。もし2度目同じように騙されて、古傷をえぐられて、二度と立ち直れなくなるのは怖いから。また懲りもなく、と笑い物になるのは怖いから。でも、それって、本当はかっこうわるいことかもしれない。騙されて、騙されても、信じきる方が、ずっと格好いいのかもしれない。そして、人を騙す人を、本当に信用にできるに足る人にするには、「もう信じない」という言葉ではなくて、「ずっと、何があっても、自分はあなたのことを信じ切る」という言葉だ。きっと、それだけだ。
そのドラマでも、香取はもとはいい人だったけれど、東京に出てきて、人に騙されてから、自分も人を騙すようになってしまった、という設定がある。誰か、心の奥に眠りかけている、良い部分の目覚めを待ってくれているから、自分でもそういう自分の中の優しい部分の存在を信じられるようになるのだろう。逆に、「悪い人だ」という言葉は、その人に自分の中の悪をより自覚させてしまうかもしれない。
人を信じるきることは本当に難しい。それは、相手より、自分のことを守ってしまうから。半分無意識に。騙されそうな「予感」を感じる。それは、事実ではない、「予感」。でも、それが事実になって、傷つく前に、自分を守って、その人から逃げ出そうとしたりする。相手にはその「予感」が、いかにも「事実」であるようなことを言って。相手は、それを受け止めて、自分の潜在的な「悪」を、表面に出してしまうかもしれない。相手がそう思っているなら、本当にそうしてやろう、と。「予感」で終わるはずだったことが、その時「事実」になる。疑う気持ち、自分を守る気持ちが、却って、自分と人を傷つける。
そして逆に、織田裕二演じる役のように、騙されても、それを騙されたと感じずに、いつかは必ず、約束を果たしてくれる、と人を信じられる人は、例え、客観的に見て、騙されている人なのであっても、多分、本人は決して騙された気はしない。だからつまり、そういう人は決して騙されないのだと思う。
それは詭弁だとか言われるかもしれない。でも、騙したと思う人、騙されたと思う人がいて、始めて、一つの「騙し」という行為は成立するのかもしれない。例え、誰かが自分には1000円の価値しかないと思うものを10万円で売って、騙した気でいても、その買った相手にとって、それが15万円の価値だったら、それは別にいいんじゃないの、と思う。……これは大袈裟な例かもしれない。それに、私が言いたいのは、もっと抽象的な概念としての、騙しについてだから、上手く伝わらないかもしれない。
でもただ、23歳になって思うこと。これからの課題にしたいと思ったことは、自分を守ることをできるだけ忘れて、何かを信じ切れるように、もう一度、もっとピュアな心になりたい、ということだ。
傷を負って、人を信じる勇気を失いかけていた22歳に別れを告げるとき。