過去Diary

幸せのひけつ

「幸せのひけつ……よく食べ、よく眠る愛らしい生活」

 元生徒の子が手紙に書いてくれていた言葉。簡単すぎる言葉だけれど、でも本当に、たくさん寝ればそれだけで何だか気持ちが安定して、心にゆとりができるから不思議だ。人間、単純に、穏やかに、幸せに生きればいい。
 
 最近、何で自分は焦っているのだろう、とふと落ち着いて思うことがある。日々はただ続いている。その中でたくさん笑って、時々ほかほかする気持ちになって、時々うつらうつらして生きていく。それでいい。

 でも、彼女の言葉に一つ付け加えておこう。

「幸せの秘訣 よく食べ、よく眠り、よく感謝する愛おしい生活」

 全ては与えられたものだと考えること。そしてその全てに感謝できることを見つけて感謝していくこと。与えられたものだから、文句は言わずにただ素直に全てを受け入れること。それを与えてくれた人は、自分のことを愛してそれを与えてくれたと信じ切ること。

 簡単に言ってしまえば、最近信仰らしきものを持ちはじめた。
 
「はじめた」というのは正確ではない。私は幼稚園のころ、毎日「天にまします我らの神よ……」とお祈りをしていたし、小学校は普通の公立だったけれど、登校の時に自分の中で「今日一日家族みんなが幸せに暮らせますように」と祈っていた。

(これはつい最近になって思い出したことで、当時は何の疑問も抱かず、誰にも強要されず、みんなに秘密で祈っていた。自分であみだした祈り方の手の仕草もあった(笑) 今振り返って考えると変わった小学生だったなと思う(笑))

 そして中学と高校はキリスト教の学校で、毎日20分の礼拝をした。私は洗礼もうけていないし、まじめに聖書を読破したりもしていない。祈っている相手が、キリスト教の神様なのか、他の神様なのかも分からない。でも、そういう学生時代を通して、私は人間の力を越えた力をいつも感じて生きていた。
 
 つまりだから、「信仰らしきものを持ちはじめた」というのは、その存在を信じていた頃の自分を思いだしたということに過ぎない。……高校を卒業してから約5年、その間ずっと忘れていたわけではないけれど、いつの間にか私は、「現実を見つめる」という大義名分において、とても狭い価値観で生きていたのではないか、と思った。
 
 うまくいえない……正確に書こうとすればとても長い文章になってしまいそうだ。でも、簡単に言えば、最近の私は自分の不運についてばかりに目がいき、勝手に悲劇を作りだしていたのではないか、とふと思ったと言うこと。
 
 つらい別れがあったのは本当だし、確かに私はそこから立ち直ろうと必死になっていた。でも、別れを与えられたものとして素直に受け止められなかった。あの時ああしていれば良かったのかもしれない、今ならまだ取り返しがきくんじゃないか……あがいていた。そして、またきっとダメになる……勝手に不安を抱いて、関係のない人にその不安をぶちまけたりした。でも、別れたのは私にとってそれが良かったから。彼にとってそれが良かったから。神様(の様な力)は、私のために一つの世界を作りだし、その中で彼の行為を決め、彼を操る。そしてまた、彼の世界も作りだし、その中での私の行為を決め、私を操る。

 神様は具体的な物事を祈っても、その力は貸してくれない。それは人間一人一人のすること。神様はそういう物事に対して力を持っていないわけではなくて、あまりに目先のこと過ぎて感心がないのではないか、と思う。だから、ある願い事をしてそれが叶わなかったからといって、信仰を持たないという人は、祈る時点から信仰がないということになるのだろう。
 
 幸せの基準は人によって違う。だから、自分は幸せだと信じられればそれでいいし、そう信じられなくても、今はこれから先にある大切なことのために力をつける至難の時なのだな、と信じられれば、それもまたいい。
 
 悲しいことだけれど、人は人を傷つけるし、裏切ることもある。でも、神様は裏切らない。……こんな風に書くと、「神が人間を作ったのではなくて、人間が神を作ったのです」という反論もありそうだけれど、神様が裏切らないのはなぜかと言えば、それは自分自身が作り出す、「信じる」力がイコール神だからかもしれない。自分で自分を見捨てない限り、運命は人を見放さない。

 今日書いたのは全部私の個人的な意見。みんなに同意してもらえなくてもいいと思う。

 でも、ただ一言「主の御心のままに」と祈ることができるようになれば、生きていることはずっと楽になる気が、私はする。世の中に遠回りの道はたくさんあるけれど、意味のない道はない。「失敗は成功のもと」? 失敗した方が、最初から成功するよりももっといい成功を手に入れられるかもしれないよね。 広い視野で生きたい。  

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