高野山にはまり、でも「弘法大使って空海だっけ……?」くらいの知識しかなく、ちょっと恥ずかしく思い、「空海」に関する本を探し、読んでみた。
いや、面白かった。さすが高村さん。
歴史の本を読むのもいいけれど、力ある作家のドキュメンタリーで歴史上の人物を学ぶって良いかも。
Contents
空海≒弘法大使
この本を読んで、私の「弘法大使って空海だっけ?」という感覚が決しておかしくはない理由が分かった。
高村さんが「空海」で言うには、
最澄の天台宗に比べ、空海の真言宗はその後に続かず、空海の没後に「空海」の存在感と共に鳴りを潜めてしまった。
その代わり、空海の没後、「弘法大使」という称号を得たときに、「弘法大使」という新たな人間離れしたありがたい存在が生まれ、「空海」や「真言宗」というものとほとんど関係のない形でどんどん神格化され、今も高野山の御廟で瞑想しているという設定まで生まれた。
と。(※上の文章は、私の理解のまとめであって、引用ではないです)
高野山で弘法大使が今も瞑想しているというのは、「空海」が亡くなって大分経ってから言われ始めたことらしい、など、「それを言ってしまっては身もふたもないのでは」みたいなことも色々書かれているから、好き嫌いは分かれる本かも。
でも、高村さんの「事実」をまっすぐ追求していこうという姿勢には、好き嫌いを超えて、打たれるものがあると思う。
「個人的」な神秘体験
この本の中では、空海がまだ唐に渡る前、一人修業をするなかで得た「神秘体験」について、繰り返し触れられ、それこそが空海の原点だとされる。
私は空海のその「神秘体験」について、この本で初めて知ったくらいなのだけれど、この本を読むと、確かにそこが非常に重要だったのだろうと思う。
その神秘体験について、空海は「谷響きを惜しまず、明星来影す」と説明しているらしいけれど、これは現代語訳すると「谷がこだまを返し、明星が光を放ち体に飛び込んできた」ということ。
洞窟に一人籠り、肉体を限界まで追い込んで修業したなかで得た神秘体験という。
これを読んで私は、去年読んだ『エネルギー・コード』のなかで、筆者のDr.スーが経験した神秘体験ときっと同じものだろうと思った。
表現はまったく違って、Dr.スーは自分の魂が天に上がり、すべてと一体だったのだと分かったという“ワンネス”の表現だったけれど、Dr.スーもその体験からがらりと人生と、人生観が変わったと書いている。
スピリチュアル的発信をしている人のなかには、そういう体験を経て目覚めた人も多いのだろうと思われる。
現代、スピリチュアル界隈では、「今は波動が高いから、目覚めやすいけれど、昔は困難で、本当にごく一部の人しか目覚められなかった」みたいに言う。
なるほど、空海もその一人の、イエス・キリストと並ぶようなアセンデットマスターだったということなのだろう。
高村さんは「事実を積み重ねて、真実を見つける」的なタイプなので、空海の神秘体験は「個人的体験」で、だからこそ説明がつかないし、そういう個人的体験あっての宗教というのは、後継者に恵まれなくて当然だったかもしれない、と論を進める。そして自分には「神秘体験」はまったく想像がつかないとも。
(でも、高村さんは決して「神秘体験」の存在自体は否定しないし、目に見えないものを信じる人への差別もない)
ただ、空海は唐に渡ったとき、青龍寺の恵果に会う。恵果は初対面の空海に「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し(あなたが来ることを前から知っていて、長く待っていました)」と言い、唐のなかにも異国にも1,000以上の教えを乞う僧がいたのに、唯一空海にだけ教えを授けた。それが日本に渡り、密教が始まるという流れだったらしい。
明らかにスピリチュアルな力が働きまくっている!!! と私は思うのだけど、どうでしょう?(笑)
個人的な肉体体験が、個人的真実を作る
ということで、高村さんの文章は非常に客観的で、「事実」だけ書こうという姿勢なので、「空海は835年に死んでいて、今も奥の院で瞑想しているとか、後世の人があとから作った物語だよ」とか、「空海と真言宗は後継者に恵まれず、今は高野山で行われる行事だけ残して、ほぼ何も残っていないに等しいね」とか、「その分、弘法大使と高野山だけ神格化されたのが、現状だね」とか……そういう、ある意味知らない方が良かったかも的「事実」を色々突きつけられたのだけれど、
でも、なぜか本を全部読み終わって、改めて思うのは、
やっぱり空海(弘法大使)はアセンデットマスターで、今も高野山を拠点として、この世を見守っているよね、という確信に似た想い。
きっとそれは、根拠のない、私の「信仰心」ということになるのだろうけれど。
でも、「神秘体験」というほど大それたものでなくても、奥の院で確かに感じた、質の高いエネルギーが頭から体の中に強く流れ込んできた感覚。
やっぱりそういう「個人的」な肉体経験は、客観的事実のないところに、個人的「真実」を作っていくのだろうと思う。
なかなか密度濃い本で、きちんと理解できていない部分も多いと思うけれど、でも、私は私なりに、この本から得た知識を元に、様々なことを考え、感じられ、非常に良い体験だった。
高村薫「空海」