この夏、イタリアに行ったとき、香水を買ってきて、最近はその香水ばかりつけている。そんなに強いにおいではなくて、その匂いをかいでいると、なぜか心が落ち着いてくる。寝られない夜、時々その香水をつけて、ぼんやりただその匂いをかいでいたりする。
人の記憶は、一番「匂い」と結びつきやすい、ということは、確か前の「日記」にも書いたことがあるだろう。だから、暗記物をするときは、何か匂いをかぎながらして、その匂いを試験場まで持っていくといいらしい。
まぁ、それはいいとして、昨日、この間の冬にいつもつけていた香水を発見し、懐かしくて、それをつけてみた。泣きたくなるぐらい、切なかった。その頃はすごく切ない片思いをしていたから、その時の「切なさ」がよみがえってきたというのが、8割ぐらい、原因。あとの2割ぐらいは、その頃に、もう戻れないんだな、という切なさ。
私は結構プラス思考の人間だから、あまり過去に帰りたいと思うことはない。いつも、今が一番だ、と結構単純に思える。だって、「今」は、過去の全てがあって初めて存在する「今」だから、過去と、過去の自分を愛おしく思うのなら、その「過去」の結果としての、「今」の自分を愛おしく思ってあげたいじゃないか。今まで、色々あって、怠け心に支配された時期もあったけれど、でも、全体として、自分は頑張ってきたから、どの時期の自分のしたことも、否定はしてしまいたくない。だから、「今」を否定しない。
じゃあ、なぜ昨日、その匂いをかいだとき、「切なく」なったのか。それは、「後悔」とは違う。戻りたい、という思いとは違う。ただ、去年の冬という、ほんの8,9ヶ月前のことを、きちんと思い出せない切なさ。思い出せない、というのとは違うかも知れない。その時の状況、言葉などは意外と思い出せたりする。でも、ただその記憶にある「映像」のようなものと、自分がすごく遠い。本当にその状況を生きたのは、私であるという自信がなくなってしまうぐらい遠い。それが切なかった。
なぜそんなに遠いのだろう、と考えた。そして、少し分かった。私はこの8,9ヶ月の間、色々なことを経験して、その時とは違う視点、違う価値観で世の中を見始めた。だからだ。
少し前の日記で、記憶とは、知識の集積ではなく、変動するシステムだ、という港千尋さんの言葉を紹介した。その日の日記では、私は「感情」による、記憶の更新についてしか触れなかった。でも、それだけじゃない、もっと重い意味が「記憶の更新」にはある。…そんなことを思った。
それは少し、淋しいこと。でも、大きな可能性かも知れない。過去を思い出す。その時に感じた視点のずれが、きっとその時から、今までの自分の成長した分。
どうせ過去を回想するのなら、ただ漠然と「あの頃は良かったな」ではなく、その「ずれ」をしっかりと見つめてあげよう。今回私が、演劇についての小説を書いたのも、そのせいかもしれない。今、その頃のことをしっかり見つめることで、その時解決できなかった為に、ずっと抱え続けてしまった、トラウマに近いものにいつの間にか育ってしまっていた思いを、ほんの少し癒せた。そして、これから歩いていく方向が少し分かった。
14日の日記にも書いた、橋口監督の話だけれど、橋口さんは、「渚のシンドバッド」で、17歳の少年や少女の話を撮っている。
17歳というのは、橋口さんにとって、初めて同級生の男の子を好きになり、自分は人と違うかもしれない、と気づき始めた時期だったらしい。でも、橋口さんは、それを認めたくなくて、どうにかその気持ちは嘘だと自分に対しても、ごまかそうとしていた。
だから、「自分の中にいつも17歳のシュンと座っている「僕」がいて、そのこのために、今罪滅ぼしをしたいと思った」そのための映画だったそうだ。橋口さんは、その映画を撮ったことが、「癒し」になったと言っている。そして今度は、「これから」を撮りたい、と、自分と同世代の人たちの映画を撮る予定だ、と話した。きっと、橋口さんは、一度17歳に戻ることがなければ、「これから」も見えなかったのではないか、と思う。
「過去」は、「今」も「これから」も教えてくれる。自分がすごく元気で、前進できそうなときは、ただ思いっきり進んで、距離を稼げばいい。でも、それだけの力がないとき、過去を振り返ったって、いいんじゃないかな。