美術

「人体の不思議展」

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 プラトミックという最新技術により、匂いも腐敗もなく半永久的に常温で保存できるようになった人体の標本の展示会。

 基本的に私は、人が怪我をしたという話や、手術を受けた話を聞くのは大の苦手だ。ホラー映画も絶対にダメ。だから、この展示にも、自分から進んでいこうとはしていなかったのだけれど、知り合いに勧められ、少し重い足を引きずりつつ行ってみた。

 でも、勧めてくれた人への義理ではなく、本当に行って良かったなと思えた。初めのうちはやはり、「死んだ後だからといって、こういう標本にするというのは、どこをどう切り裂くのだろう」などと具体的に想像されてしまい、かなり気持ち悪くなってきたが、そのうち段々慣れてくる。素直な気持ちで、人の体というのは、こんなにも複雑な構造なのだと感心できるようになる。

 そして、その「感心」がある瞬間、「感動」になった。「自分はこんなにもすばらしい機能を与えられて生まれ、それらの働きによって生かされているのだ」という気持ち。
 
 中学・高校時代に暗記させられた聖書の一節を思い出した。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 (略)今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか(マタイ6・25と30)」

 今、生きているということを、当たり前のことと思い、命をあなどってはいけない。思うようにいかないことがあったからといって、命を捨てたりしてはいけない。失敗したって、人と比べて一番になれなかったからって、命の価値は変わらない。だからまず、根本に戻って、ただ人としてこれだけ複雑な構造とともに世に送り出されたことに、誇りを持つべきだ。……そんなことを思った。

 それから、もうひとつ思ったのは、もし「自我」とか「思考」というものを脳だけが司っているのだとしたら、自殺するというのは、脳のエゴだなと思った。他の器官はこんなにも懸命に働いていて、そこに異常がないのに、その器官をすべて停止させてしまうなんて……。

 ただ、少し前にテレビで、心臓を移植された人に、元の心臓の持ち主の好みや記憶が乗り移ったという話を見たけれど、思考は脳だけによってなされているわけでもないのかもしれない。そのあたりはまだまだ研究が進んでいないようだけれど、興味深いと思う。

 会場を出る頃には、生きている人間の血管や心臓に触ってみたい欲求さえ覚えてしまった(笑) 一体だけ触ってもいい標本はあるのだけれど、蝋でぬりかためられた不自然な感触でしかないから。実際の触感、匂い、ぬくもりを感じ、動いているその現場を見たら、もちろんこの展示の比ではなく気持ち悪くなるだろうけれど、やはり「命」は、そこにしかない。当たり前だけれど。

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