最近、
「この作品、好きだな」と思う作品は、
「整っているな」と感じる作品だと気づいた。
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整っている作品
整っているというのは、構成に破綻がないとかそんなことではなくて、
「作り手の意識が、しっかりと作品の細部まで行き渡っている」ということ。
さらに、
その「作り手の意識がすっと確かな静寂のなかに凛として存在していて、その静寂が作品に行き届いているな」と感じる。
そんなもの。
今年2月に見た「ユージン・スタジオ 新しい海」展は、本当に、「整っている」としか言いようがない、確固たる世界観だった。
その展示を見るまで、ユージンさんのことをまったく知らなかったし、今も2月の展示で見た作品からしかユージンさんの情報を得ていないのだけれど、
それでも最近、「理想の芸術家の体感」を作ろうと思うとき、あの展示で感じた確固たる世界観と静寂を思う。
身近なところから整える
私は自分が「いい状態だな」と感じるとき、自分の意識の中心が自分の肚のあたりにあり、そこからグラデーションのように外へ広がっている。
広い公園の見晴らしのいいベンチで寛ぐのが好きなのだけれど、そういうときは、視界のずっと向こうまで、意識が広がり、届いているような感じがして、心地よい。
きっとそういうとき、実際に創造の力もかなり強まっているのだと思う。
今は、新しいライター仕事は受けていないけれど、以前は公園でぼーっとした後に、よく仕事の依頼が来た。
広い公園みたいな、物理的に何もない空間が好きだけれど、いつもそんな場所にいられるわけではない。
だから私は、家のなかは意図して、かなり念入りに整える。
それは「風水的にどうの」とかではなく、自分にとってそれが、「意識を隅々まで行き渡らせる」ということだから。
隅々まで行き渡った意識で創造する
そうやって、隅々まで意識が行き渡った状態で、行動は起こす。表現はする。
今はそれを徹底できるよう、訓練中。
結局、自分の内側さえ整えられない状態では、外に良い影響を与えられる表現、行動なんてできるわけがないんだ。
そう、ようやく分かってきた。
昔は、「外の評価さえ得られれば、もっと自分や自分の作品に自信が持てるのに」とか、外に力を渡しすぎていた。
作品も現実もクリエーションするのは、ただもう、自分の内側を流れるエネルギー。
そして、内側のエネルギー(それは結局は、自分の体内に取り入れたソースエネルギー)を感じられるときは、それだけでしあわせだし、満たされる。
だから、「良い作品を創ること」が目的なのか、「内側のエネルギーをもっと確かに感じること」の方が目的なのか、どちらなのかもわからなくなってきたりしてね。
それが最近、正解の気がしている。
深い瞑想状態のような感じで、文章も書いていきたいと思うんだ。