それ以外の本

「自分とか、ないから」:空と縁起

最近本屋で平積みになっていることが多いこの本「自分とか、ないから」

 

副題には「教養としての東洋哲学」とあり、帯には「東大卒・こじらせニートが超訳」と書いてある。

ちょっと気になってパラパラめくってみたけれど、「いらすとや」のフリーイラスト満載のなんか軽いノリに「?」となり、すぐ閉じて書店を後にした。

 

でも、この本を紹介していたYouTube動画がたまたま目に入り、聞き始めたら、その世界観が深すぎて、気になって書籍も購入。

結果、「今年一番買ってよかった本」になった。

 

東洋哲学とスピリチュアルは同じことを言っている

表現の違いはあるけれど、東洋哲学もエイブラハムなどスピリチュアルも、スピリチュアル系の人が発信している量子力学の話も、最終的には同じところに行き着いている。

 

それが「空」

「色即是空」の「空」

 

「空」というと、「無」みたいだけれど、「無」ではない。

「無」というと虚しい感じがするけれど、「空」はむしろ、隙間なく満ちたエネルギーの場とも言える。

 

そのことが“あぁ、なるほど”と一番腑に落ちたのが、私は、この『自分とか、ないから』だった。

 

『自分とか、ないから』は6章構造

この本は下記の6章から成っている。

1章 「無我」自分なんてない(ブッダ)

2章 「空」 この世はフィクション(龍樹)

3章 「道」 ありのままが最強(老子と荘子)

4章 「禅」 言葉はいらねえ (達磨大師)

5章 「他力」ダメなやつほど救われる(親鸞)

6章 「密教」欲があってもよし(空海)

 

それぞれの章が面白く、今まで知っていた断片的な知識が整理されて、「なるほど、〇〇さんはそういうことを言っていた人なのね」と勉強になった。

さすが副題に「教養としての東洋哲学」と書かれているだけあるし、さすが「東大卒」の人が書いただけある。

この本を書くために著者のしんめいPさんは400冊の東洋思想の本を読んだとか。

 

最初に書いたように、いらすとやの緩いイラストが多用されているし、文章の書き方も非常に軽いのだけれど、

内容は本当にしっかり整理されていて、要所を抑えているというか、“間違いにならないギリギリまでかみ砕いた解説をしている”という素晴らしい本。

 

龍樹について書かれた2章が圧巻

ということで、上記6人の思想家の言わんとしていたことを端的に理解するためにも、とてもお薦めの本なのだけれど、私が感銘を受けたのは、龍樹の章。

他の5人は知っていたけれど、龍樹だけは知らなかった!

……というのは、私だけではないはず。

 

第一章の仏陀の「無我」に続く形で展開される第二章の龍樹の「空」と「空とは無ではなく“縁起”」という話が、非常に心に迫ってきた。

第二章で展開されるのは、「すべては言葉が創り出した幻である」という論議。

 

たとえば「山」といっても、本当はどこからが山なのか境などない。

だから、日本のどこにいても「富士山のふもと」と言っても、間違いではない。

もっといえば、「日本」が独立した島国だというのも幻で、海の水を無くせば、日本だって大陸と繋がっているから、アメリカにいる人が「ここは富士山のふもと」と言っても間違いではない。

みたいに、ややぶっとんだ、でも意外と反論できない主張が続いていく。

 

さらに、

雲は雨は川になり、川は水道水になり、水道水は自分に飲まれて「自分」になる。

つまり、「自分」は「水」であり、「川」であり、「雨」であり、「雲」である。

そうやって考えていくと、「自分」はすべてであり、宇宙そのものなのだ、みたいな論理。

 

「うんんんん???」となりながらも、なんかその広がっていく感覚は意外と心地よく、次第に「そういう考え方もありかな」なんて思い始める。

 

「自分はない」という無我の境地が一番心地よい

第一章で仏陀の言葉がこう紹介されている。

「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。

これこそ最上の安楽である。

ウダーナヴァルガ30章19

つまり、「自分はない」という無我の境地が一番心地よいのだ、ということ。

 

もっと若い頃は、そんな感じのことが書かれた仏教の本を読んで、「自分がない」なんて恐怖でしかないように感じたけれど、今はなんか分かる。

「私が」「私が」という思考が、何よりしんどさを産んでいるのだ、と。

 

フィクションを取り除いたあとに残るのは「縁起」

そして、仏陀の思想をさらに深めた龍樹が言っているのは、

「自分」も「山」も「川」も本当はすべてフィクションで、

境など何もない世界は「空」であり、

それはすべてとつながっている「縁起」なのだ、と。

 

フィクションを取り除き、「自分」も「山」も「川」もなくなったらどうなるか?

一瞬、何もない無や、暗黒の世界みたいな救いのないものを想像する。

でも、全然違うと龍樹は言う。

 

フィクションがなくなったあとに残るのは、

すべてであり、すべてと繋がった「縁起」である、と。

つまり、きっとそれは、なにものにでもなれ、なにでも産み出せそうな、ものすごい可能性の場。

(世界は「空」だから、思考が現実化するような「引き寄せ」が起こるとも言える)

 

龍樹の思想、壮大!

この本で、初めて知った龍樹のファンになった!

 

この本の概要を紹介する動画がお薦め

ということで、この本自体読んでもらいたいのだけれど、まずは私がこの本のすごさを知ったYouTube動画を見てもらいたい。

 

スピリチュアル系の本をたくさん紹介しているチャンネルなので、知っている人も多いと思うけれど、HAPPY研究所さんの動画

ショウさんの良い声の相まって、空と縁起の広がる自由な心地よさが味わえ、とても良い。

 

体感からでも、理論からでも

前回の記事で、「瞑想していたら自分は海のなかの生け簀みたいなものだったと気づいた」と書いたけれど、

瞑想などで自ら体感するところから入るもよし、こういう本を読んで、頭でまず「自分とか、ない」と知った後に、体感するもよし、という感じかな。

体感は必要だと思うけれど、こういう話を知ったあとのほうが、体感を起こしやすい人もいるのかもな、と思う。

 

また、私のように何度か体感したけれど、すぐその体感を忘れてしまう、というレベルの人間は、こういう話を聞くと、瞑想しているとき以外にも、周りと繋がっている「縁起」みたいな感覚を思い出せたりするので、大事。

最近私も、「空」のような、「無我」のような広がりの感覚のなかにいられるときが、一番心地よいなと思うので。

 

是非是非、動画でも本でも良いので、この世界観に触れてみて欲しい。

 

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