宇宙理論歴も長くなり、本当に大きなことを起こすためには、自分の力を超えたソースの力、神の力を味方に着けることが欠かせないということは、完全に理解している。……つもり。
なのにいまだに忙しくなると、自分の内側の馬力だけでぐわぁっ~と物事を進めてしまう(笑)
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馬力で現実創造するのも意外と楽しい
多分私、内側のエネルギーが実は強い人間なのだと思う。
内側の馬力だけで、意外と現実創造もできてしまう。
そして、内側の馬力で頑張って現実創造するのも楽しいんだよね。
やはり昭和の人間なんだな。
努力して、努力して、成し遂げるみたいなところに、爽快感はやっぱりある。
地球に生まれて来たということは、それをやりたかったということでもあり、
その遊び方も間違ってはいないのだろう。
でも、それが続くと、やっぱり疲れる。
あ”~なんか疲れだ~ となり、あれ? なんかおかしくない? と気づく(笑)
やっぱり、自力でできることと、ソースの力を味方につけてできることはレベルが違う。
よく「顕在意識は5%」とか「宇宙の力に比べれば、人間の力など小指程度」とか言われるけれど、まさにそうだと思う。
たまに三次元的に「努力」なんかして、楽しむのもいいけれど、
それはいっときの遊びなのだと自覚し、目覚めていないと、
本物の「創造」をするまえに疲弊したり、身体を壊してしまう。
自力を手放さないと
結局、「自力」を発揮しているあいだは、外の力は働かないんだと思う。
頭であれこれ考えすぎたり、「こういう計画で、こういう順序で、こうやって動いて」と思考でがんじがらめになっているとき、神様は「そんなふうにやりたければ、どうぞそうやってみなされ」みたいに遠くから見ている。
見守ってはいるけれど、力を貸す気はない感じ。
ソースの力を発動させたければ、もっと自分の計画とか、力を手放さないといけない。
「きっともっと良い流れがあるはずだから、お任せ~」と力を抜いたとき、自分の力を超えた大いなる力は働く。
他力本願
去年、“選挙に行きましょう”とアピールするポスターで「他力本願」という言葉を悪い意味で使っていて、そこに仏教界からクレームが入り、ポスターを差し替えることになった、というニュースがあった。
仏教では「他力本願」とは「阿弥陀仏の慈悲や救済の力、またはその力によって救われることを意味する言葉」らしい。
つまりここで言う「他力」は、ソースの力、神の力と似た、人間を超えた大いなる力ということだろう。
「他力本願」って普段は悪い意味に使われるけれど、
本当は最も最適化された生き方なのかもしれない。
人に対して強く思うことは、実は自分に言いたいこと
あと、私は最近気づいた。
自分が目の前のことに一生懸命になりすぎて、「自力」でどうにかしようとしすぎて、消耗しかけているとき、同じパターンに陥っていると。
そういうときは、自分だけがすごい一生懸命家事をしていて、旦那が手伝ってくれない!という不満が胸の中で大きくなっていく。
で、「なんかすごい孤軍奮闘状態!」と心のなかで叫んでいる。
はっと思ったよ。
あ、自分で「孤軍奮闘」してた、と。
つまりは、自力に頼りすぎ、他力を忘れているから、こんな孤軍奮闘状態を感じるのだ、と、ついに気づいた。
結局、こういうときも、本当の問題に旦那は何の関係もない。
ただ自分が自分に気づかせるために、外の状況を創り出しているだけなんだよね。
そう考えると、なんかすごい。
以前は「あ~、自分だけが頑張っている気がするっ!」となったとき、
家事分担表を作って、旦那にもっと家事をしろと迫ったりもしたけれど(笑)
それは実はまったく意味がなかったんだよな、と、今は分かる。
結局、分担表を作って変わったこともなかったし💦
すべては自分が創っている世界。
そう分かると、たまに「他力」を忘れ、馬力でうおぉぉっと頑張りすぎて、疲れ切ることも含め、
三次元のこの地球生活は楽しい。