遅ればせながら、「羊と鋼の森」を読みました。
話題になった本なので気になっていたのですが、2016年の本屋大賞受賞作だったのですね。
私は2017年本屋大賞受賞作の「蜜蜂と遠雷」から読んでしまいましたが、「蜜蜂と遠雷」を読んだあとにこの本を読めて、ある意味、しあわせだったかな、と思います。
★「蜜蜂と遠雷」の感想はこちら
http://vitarals.com/2017/08/mitubachi.html
Contents
表の「蜜蜂と雷鳴」 裏の「羊と鋼の森」
というのは、「羊と鋼の森」は、ピアノ調律師の話。
高校時代、調律師の仕事に興味を持った、ピアノを弾いたこともない主人公が、迷い、悩みながら手探りで、その仕事の神髄に触れていくようなストーリー。
主人公が調律師というある意味「裏方」なだけあって、この作品自体も、基本的には淡々としたトーンで進んでいきます。
片や「蜜蜂と雷鳴」は、スポットライトを浴びるコンテスタント(演奏者)側の、華々しい話。もちろん、スポットライトを浴びる人間だからこその苦悩や大変さもあるのだけれど、「蜜蜂と雷鳴」には、表紙からイメージされる通りの、鮮やかな色合いに満ちた、美しく、明るい世界が描かれています。
「蜜蜂と雷鳴」の次にたまたま「羊と鋼の森」を手に取った私は、調律師の地道な職人的世界が支える先にある、華々しい世界に先に触れていたので、なんかその世界の対比もあって、さらに、「この作品、いいなぁ」と感じてしまったのでした。
本当、内容もそうだけれど、宮下さんの世界の描き方も、決して華々しくはなくて、でも、ものすごく精緻な、隅々まで意識が行き渡っているような書き方で、好感が持てました。
こういうの、私はビジネスモードになっているときには読めなくなるタイプの本。
だからこそ、こういう世界を余裕をもって味わえた自分にもちょっと嬉しかったし、こういう人物(誠実だけど、不器用な職人タイプの主人公)を描いた、エンターテイメントというよりは「文学」である作品を多くの人が支持しているという現状にも、ちょっと嬉しくなりました。
活字離れが進み、ゆったりなにか一つのことを味わうことが減っている現在でも、じっくり活字と向き合い、そこから自分なりに世界とつながろうとしている人は、まだまだいるんだな、と。
というのが、本全体についての感想。そして、本のなかの世界について私の心に一番残ったのは……
職人にも才能が必要なのか?
「職人にも才能は必要なのか?」ということ。
私のなかで、「ピアニスト=芸術家=才能があるか、ないかの世界」ではあったのですが、調律師というのは、「職人」のイメージでした。
そして、職人というのは、才能があるとかないとかではなく、地道にコツコツスキルを磨いていく人、と思っていました。
でも、裏方としてであっても、音楽という芸術に携わる人は、やっぱり「アーティスト」の要素をもっていなくてはいけなくて、だから「才能があるか、ないか」の世界にいるってことなんですかね。
それとも、どんな職業であっても、やっぱりすべては「才能があるか、ないか」の世界なのでしょうか?
この本に出てくる調律師たち(主人公も、その会社の同僚や先輩たちも)がみんな、当たり前のように「才能があるか、ないか」の思考をしているのが、私にはやや驚きでしたが、だからこそ、新鮮な視点をもらったように思います。
主人公は、素晴らしい腕を持つ調律師にたまたま出会い、「ピアノの調律」というものに理由なく惹かれていくのですが、仕事をはじめ、続けるうちに、「なんのために」その仕事をするのかに迷いが生まれてきます。
そんな、働く人の「目的意識」についての迷いや、そこから抜け出し、「目的」を見つけ、動き出すまでも、見ていてすがすがしく、「働くって何だろう?」と迷っている人が原点回帰するためにも、良い本なのではないかな、と思います。
この本には、心に残る風景描写や印象に残る会話や言葉もたくさんあるのですが、終盤に出てくる、この言葉が特に良かったです。
安心して良かったのだ。僕には何もなくても、美しいものも、音楽も、もともと世界に溶けている。
自分に才能があるのか、ないのか悩んだり、才能があるかも分からず努力することに苦しんだりする時期も大切だけれど、本当に大切なのは、こういう「たとえ自分に特別なものはなくても、世界は美しさと優しさに満ちているから、大丈夫」という安心感なんじゃないかな。
と、なんか私も最近、そんなことを感じています。