私の卒論は小説だが、「4月中に一度見せて下さい」と教授に言われていながら、気付いたら夏休みになってしまいそうで、それに気付いて、慌ててこの間教授のところに行ってきた。そして今日、その感想を聞かせてもらったのだが、書き直さない始めの原稿の方が良かったと言われ、うるうるという感じだった。まぁ、書いて無駄になることはないし(自分の糧となるのだ)、教授はとてもいい人で、嬉しいし、いいのだ。
でも、また「あなたは他者が書けていませんね」と言われた。少しずつ、社会に目を向け、人と関わるようになって、私は変わったと思っていたのに、結局、私は誰と会っても、誰と関わっても、それを自分の価値観の中に丸め込むだけで、しっかりその人を見る事なんてできていないのかもしれない。…ずっとそう思ってきたけど、先生は「あなただけじゃなくて、文芸にいる半分の人は他者を書けていませんね」と言って、三田誠広先生のように、「書き手の心が閉じていて」とか、人格を否定することはせず、ただ「描写力」の問題として言っていたようだけど、でも、なんだかため息をついてしまいたい気分だった。私には「他者」は見えない。
けど、本当に「他者」が見えないと言うことは、「心を閉ざしている」と言うことなのだろうか。人を、自分と同じ痛みや苦しみを持ったものとして、受け入れようとしていることなのではないだろうか…。言い訳か…。
「隣人愛」人を好きでいたい。…でも一方で、「他者」に会いたい。少し前、ちょっとある出会いがあって、私の価値観が、ものすごく揺らいでしまったが、少しその混乱は楽しかった。
やっぱり、今まで、ただ目をそらし、逃げていたのかな、本当に。…受け入れなくてはいけない「他者」がきっと、もっともっと世の中には存在している。前、「他者がいない」ということについて、10歳近く年上の知り合いに相談したら、「年をとって、大人になっていくに連れて、自然に他人を見る見方は変わって行くから、いいんじゃないか」といわれた。そうなのだろうか。私は人を、どう見ているのだろう。人は人をどう見ているのだろう。…たくさんの人に会いたい。